詩を文学の問題として論じるとき、詩は韻文であり、エクリチュールの問題である。文学論においては、韻文こそが文学の起源であり、あるとき散文が発明され、小説が生まれたという歴史観が生まれる。だが、サッフォーが舞踊教師だったことからわかるように(註1)、詩とは本来、身体と切り離せないものだった。プラトンはその共同体から詩人と舞踊家を追放した。舞踊とは陶酔である。プラトンは陶酔を嫌った。舞踊とは、なにかを伝える手段であると同時に、それ自体が目的でもあるようななにものかである。舞踊は内容であると同時に形式であり、形式であると同時に内容である。プラトンにとって、舞踊が手段であることは許せても、目的であることは耐え難いことだった。舞踊家も詩人も、プラトンには、イデアに触れることのない、ただその見せかけと戯れている存在にすぎないものだった。だが、「イデアの見せかけと戯れること」が、イデアに触れることにも増して、重要な価値をもつ時代が到来した。人はその時代をバロックと呼び、スペインでは16世紀後半から17世紀前半に最盛期を迎える。バロック時代のスペインは絶対君主制であり、とりわけフェリペ四世の治世は政治そのものが演劇の位相を帯びた。フェリペ四世はルイ十四世がそうであったように、すぐれた舞踊家であり、観劇を好み、戯曲家カルデロン・デ・ラ・バルカ(1600-1681)を宮廷お抱えの作家として珍重した。カルデロンは国王に奉仕する戯曲を書き、イタリアから招かれた水力工学者コシモ・ロッティが遠近法をもちいた賢覧豪華な舞台装置を宮廷内に拵えた。絶対君主制において、君主は神であり、その神とは言うまでもなくキリスト教の唯一神である。キリスト教とは宗教化されたプラトニズムである。だがプラトンは遠近法を嫌悪した。プラトンが呪詛した遠近法は、しかし、ルネサンスを経てプラトニズムという思想となり、遠近法を生んだ。ここにはいったいなにが起こっているのか。
神崎繁はプラトンのミメーシスには二種類あると述べている。『国家』第三巻では、ポリスの指導者となるべき若者に対する教育に関して、一定の範囲の有用性が「模倣」に認められているのに対して、第十巻では、そのような「模倣」を本質とする「詩人の追放」が強く主張されているからである(註2)。「詩人の追放」の議論は、詩が真実から隔たることにおいて三番目の模倣術であることに基づいているのだが、そもそもこの議論は画家をめぐって行われた。思惟の対象である寝椅子のイデアと、それに基づいて作られた実際の寝椅子、そしてそれを描いた寝椅子という三段階に応じて、それぞれの制作者として神、職人、画家が挙げられ、詩人は画家になぞらえられたのである(註3)。では詩人が追放されたように、画家もまた、プラトンの国家から追放されたかといえば、そうではない。なぜなら画家と絵画の比喩はプラトンが論を展開するに際してもっとも好んだものだからであり、画家がいなくなれば、画家と絵画の比喩がつかえなくなるからである。『国家』において、プラトンはしばしば「陰影画」(skiagraphia)という比喩を用いている。これはしばしば芝居の「書き割り」「背景画」と解釈されてきたが、実際には、「遠目から見て強調しようとする部分を浮き出させ、それ以外を背景に退けることによって、人体や画面に見かけの凹凸をつける画法であって、芝居の『書き割り』もしくは『背景画』を直ちに意味するものではない」(註4)。「背景画」は、特にスケーノグラフィアskenographiaと呼ばれ、主として俳優の衣装の着替えや仮面の付け替え用に、仮設的に作られたスケーネー=幕屋(skene)から次第に発達した、演技場の正面の構築物に描かれた絵を意味している。
この背景画に関するもっとも有名な証言は、紀元前一世紀のローマの建築家、ヴィトゥルヴィウスの『建築書』である。ヴィトゥルヴィウスは言う。「背景画(scaenographia)とは、〔舞台の〕正面と後退させた両側面の〔明暗による〕素描であり、すべての線を円の中心に対応させたものである」「まず最初に、アテナイのアガタルコスが、アイスキュロスが悲劇を上演した際の背景画を描いた。そして、彼はそれについての覚え書きを残した。さらにこのことに刺激されて、デモクリトスとアナクサゴラスは同じ主題に関して書物を書いた」(註5)。では当時の「背景画」は近代の遠近法と同じものかというと、そうではないと神崎は言う。アテナイのディオニュシオス劇場の考古学的調査により、紀元前五世紀半ば頃には、まだ「舞台」とは呼べないものの、演技の場は、仮設小屋的なテントから、本格的な建造物となっていたことが確かめられている。このことと、背景画の導入の時期は重なっている。たとえばアイスキュロスの『アガメムノン』では、松明の伝令とともにトロイアの陥落を告げる使者が到来する冒頭で、それを迎える見張りはこのスケーネーの屋根に立つことが可能だったであろうし、また、凱旋したアガメムノンが、王妃クリュタイメーストラの呪いの言葉に復讐の合図を織り交ぜた、華麗にして不吉な予感を漂わせた声を背に、紅紫色の絨毯を踏んで、アルゴス宮に入っていくその扉は、スケーネー正面の実際の扉だったにちがいない(註6)。古典期の悲劇では、後のセネカなどの朗読劇のようなローマ悲劇とは異なり、残酷な殺戮の場面はすべてスケーネーの内部で行われ、観客の目の前で演じられることはなかった。さらに役者はすべて仮面をかぶり、表情の変化は鑑賞できない。しかもすべての配役は男性が演じていた。神崎は、このような様式化された上演上の約束事は、背景画の描写にもある種の「見立て」が要求されたと推測する(註7)。すなわち、同じアイスキュロスでも、アポロン神殿(『コエーポロイ』)やスキュティアの岩山(『縛られたプロメテウス』)、ソポクレスのテーバイの王宮(『オイディプス王』)、森(『コロノスのオイディプス』)、洞窟(『ピロクテテース』)など、背景画がその中央の扉に描かれていたにちがいなく、神殿や王宮、岩や森や洞窟は、それぞれ取り外しが可能な同じものが共有されていたと考えるのが自然だという(註8)。つまり、このような制約のなかで、遠近法はまだ不完全なものだったのである。
ところで、スケーノグラフィアーとはなんだろうか。ヴィトルヴィウスは言う。「まず最初に、アテナイのアガタルコスが、アイスキュロスが悲劇を上演した際の背景画を描いた。そして、彼はそれについての覚え書きを残した。さらにこのことに刺激されて、デモクリトスとアナクサゴラスは同じ主題に関して書物を書いた。すなわち、ある一定の場所に中心が据えられた場合、どのように描線が、この視点と視線の延長とに対して、自然な仕方で、対応すべきであるかを示し、その結果、この錯視によって建築物の明瞭な像が背景画のうちに再現することになる。そして、すべては舞台正面の垂直平面上に描かれているにもかかわらず、ある部分は後景に退き、他の部分は前面にせり出したように見えるのである」(註9)。「中心」という言葉から近代の遠近法が連想されがちだが、パノフスキーは、これはそもそも画面における「中心」ではなく、視覚円錐の中心を意味し、見る者の眼の位置を指し示していると解釈している。たしかに視覚円錐は、いわゆる「視覚のピラミッド」と同じものであり、角度の遠近法であって、距離の遠近法とは異なり、大きさが距離に反比例しないという点で、偶然であるが、眼球の湾曲をも考慮に入れた近代的な遠近法に似た精確さをもつ(註10)。だが、ここで注意しなくてはならないのは、ヴィトゥルヴィウスにとっての遠近法は近代の線的遠近法とは異なるということである。紀元前一世紀の天文学者ゲミーノスの文書して知られ、紀元後四世紀の光学書、ダミアーノス『光学』に引用された「光学」の一部門としての「スケーノグラフィコン」において、ゲミーノスはこう述べている。「スケーノグラフィコンとは何か。光学の一部門としてのスケーノグラフィコンは、建築物の描像をどのように適切に描くかを探求するものである。というのも、実際、建築物はそれがあるがままに、そのようにまた見えもするのではない以上、〔この部門に携わる者は〕いかにして実際の比率を反映させるかではなく、まさにそれらしく見える〔かを探求しつつ、その〕ように仕上げるのである。そして、建築家の目的は、その作品を見かけに適合した比率に作り上げ、視覚の錯誤ではなく、視線と相関的な等しさや均衡を目指しているからである。従って、こうして、円筒形の柱は、その中央が視覚に対して細く見える傾向があるために、屈折したように見えるので、建築家はこの部分を太めに作るのである。また、円そのものではなく、鋭角円錐の断面〔=楕円〕を描けばそれが円であり、方形を描けば、それが正方形であり、また大きさの異なる列柱は、その数と大きさに応じて、それらの比率もまた変化させなければならない。同様の推理が、巨大な彫像の作者に対しても、それが完成した際の見かけの比率を指示するのであり、その結果、彼は視線に相関的な比率となるようにするのであり、実際に即した均衡をただ徒らに実現したりはしないのである。というのも、作品はそれが非常な高さに設置されたとき、そのままの形には見えないからである」(註11)。
このように、スケーノグラフィコンとは光学の一部門である。だが、プラトンが『国家』において是認したのは、算術、平面幾何、立体幾何、天文学と音階論の五つであり、「光学」という言葉は、一度も用いていない。プラトンは「スケーノグラフィアー(背景画)」という言葉に対して、故意に沈黙を守っていると神崎は指摘する(註12)。ヴィトゥルヴィウスの背景画論の時点では、背景画はその技法の幾何学的な裏づけにおいてまだ稚拙であり、学問的な「光学」もまだ確立されていなかった。だが、まさにそのことによって、アナクサゴラスとデモクリトスによって、実在の構造とは切り離された「現れ」の構造が探求されることになる(註13)。このような「現れ」は、独自に存在している限り、実在とは切り離された懐疑論を生む。そこから「複数の世界」という概念が現れる。人々の見方に応じて、見える世界はさまざまになるということだ。神崎は言う。「ここには、中期プラトン主義における、『イデアは神の思惟内容』という考え方を経て、さらに想像力として『ファンタシアー』が、認識能力として自立していく変容の過程を認めなければならない」(註14)。「ファンタシアー」が幾何学化されたのは、言うまでもなく、ルネサンスである。レオナルド・ダ・ヴィンチはさまざまな装置を発明したが、そのなかには頭を固定する装置も含まれていた。精確な遠近法を描くために視点を固定するためである。これはプラトンの『国家』における「洞窟の囚人」のイメージに酷似している。「地下にある洞窟状の住まいのなかにいる人間たちは、〔…〕この住まいのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために、頭を後ろへめぐらすことはできないのだ」(註15)。この洞窟のイメージは、スペイン・バロックの韻文による演劇でふたたび姿を現す。シェイクスピアと同様、ロペ・デ・ベガもカルデロンも〈世界劇場〉という観念にとらわれていた。観念と言ったが、正確に言えば、これは認識論である。では〈世界劇場〉の認識論とはなにか。
カルデロンの『人生は夢』の主人公セヒスムンドは、王位継承者として生まれながら、父王が占星術で息子が将来国の治安を乱すという預言を受けたため、生まれて間もなく洞窟で獣同然に育てられた存在である。成長したある日、セヒスムンドは宮廷に呼び出され、占星術が正しいかどうかを実証させられる。闇に包まれた洞窟から突然きらびやかな宮殿に出されたセヒスムンドは、自分が目にしているものが現実なのか夢なのか判断できない。洞窟で育てられたセヒスムンドは、姿形こそ獣同然として扱われたが、父王の側近が教育を施したので、人間としての知性と判断力は持ち合わせている。自らが不当な扱いを受けたことを知ったセヒスムンドは宮殿で暴れ、父王は預言が当たったと思い、息子をふたたび洞窟に幽閉する。セヒスムンドはまさしくプラトンの「洞窟の囚人」である。だが、『人生は夢』がプラトンの思想に即しているかと言えば、そうではない。当時のスペインの戯曲はすべて韻文で書かれ、構成は三幕で、必ず幸福な結末で終わるという規則があった。その規則を定めたのはロペ・デ・ベガの『新演劇作法』(1609年)である。ロペはここで、アリストテレスと、彼に依拠したイタリアのルネサンス詩人たちによる劇作法を無視し、いわゆる〈三一致の法則〉を放棄して、より「自由」な劇作法を提案している。だがその「自由さ」は、三幕構成で全体は三千行で収まるべきであり、上演時間は二時間を越えるべきではないという留保がある、いわば「不自由な自由」である。そして、セヒスムンドは、あたかも戯曲の「不自由さ」をなぞるかのように、不自由な存在として描かれる。セヒスムンドは洞窟を見る。あるいは宮殿を見る。だが彼には、見えるものが実在とは思えない。見えるものと、「見ている」と知覚しているものとのあいだに、なにかがあると感じている。見る存在と見られる対象のあいだに、なにかが介在しているのだ。人はなにかを通してしか見ることができないというのが、セヒスムンドの苦悩である。そこにあるのは、視覚が「距離の感覚」だという厳然たる事実である。触覚や聴覚は対象が直接器官に触れるが、視覚は一定の距離を置くことが条件である。では、「見ること」と理解することはどのような関係にあるのか。そして「見ること」と詩学とはどう関連づけられるのか。
ここで注意しなくてはならないのは、17世紀スペインにおける詩の社会的存在意義である。識字率の低いこの時代において〈読むための韻文〉は少数の詩人の手慰みであり、社会の多くの人にとって韻文とは劇場で演じられる芝居だった。詩を理解するということは、芝居を見ることと同義だった。すなわち詩は身体と切り離せないものだったのである。詩とは舞台上の表象であった。舞台上の表象を見ること、あるいは見せることが、当時の詩学の問題であった。
矢橋透が指摘するように、世界像を提示するために演劇のイメージが〈世界劇場〉として用いられるとき、西欧においてそれは伝統的に否定的なニュアンスを担っていた。ギリシア・ラテンの伝統においても、キリスト教的伝統においても、〈人生=芝居〉という概念は、神に操られる人間の虚しさを示すものだった。だが近代になるに従って、そうした傾向は、肯定的かつ積極的なものに変化してくる。エリザベス朝の演劇同様、カルデロンは〈演劇の理念〉そのものを自らのテーマとした(註16)。ここでは、見たいという欲望が積極的に肯定されている。その背景にはイエズス会の世界観がある。中世において、五感のヒエラルキーの頂点にあったのは聴覚であった。バルトが説くように、「もっとも洗練された感覚、すぐれて知覚的な感覚、世界とのもっとも豊かな接触を打ち建てる感覚」(註17)、それは聴覚だった。視覚は触覚のあとの三番目の位置を占めているにすぎなかった。聴覚の優位性は神学が保証していた。教会はその権威を言葉という基盤の上においており、信仰は聴くことであった。ルターによれば、耳だけがキリスト教徒の器官であった(註18)。だがイグナチウス・デ・ロヨラは『心霊修行』で視覚を五感のヒアラルキーの最高位に高めた。たとえば「地獄の瞑想」の手順にそれはみられる。
第一 まず想像の目でもって巨大な炎と、燃える肉体に閉じ込められた魂を見ること。
第二 耳でもって阿鼻叫喚と、我らが主なるキリストとすべての聖人に対する罵りの声を聞くこと。
第三 鼻でもって煙と硫黄と悪臭と腐臭を嗅ぐこと。
第四 舌でもって苦いものと涙、悲しみ、良心の呵責を味わうこと。
第五 肌でもって炎が魂に触れ燃やすさまを感じること。 (註19)
こうして五感のヒエラルキーは視覚-聴覚-嗅覚-味覚-触覚という序列になった。カルデロンの『人生は夢』の洞窟とは、光の欠如の謂である。そして劇場とはもっぱら視覚に訴える場所であった。その際たるものが宮廷劇である。カルデロンの『上なき魅惑、愛』(1935年)は、マドリードで催された、ギリシア神話のオデュッセウスとキルケーの物語を題材とする一大宮廷スペクタクルであり、宮廷付劇作家となったばかりのカルデロンが単独で書いた最初の宮廷劇である。『上なき魔法、愛』は庭園の池にしつらえた人工の島で上演された。なぜ島なのか。西欧文学の象徴体系において、それはなによりもまず「孤立、孤独、堅忍不抜」の象徴であり、そして「一種のユートピアで、失われた地上の楽園としての島を意味する。そこを見出したら二度とそこから戻らない」場所である。またなぜ宮殿なのか。それは「権威、富、栄光の場所」であるのはもちろんのこと、これはレティーロ宮そのものでもある。オデュッセウスが安逸を貪るのはキルケーの宮殿の庭園である。〈庭園〉がもつ象徴的意味をアト・ド・フリースは15挙げているが、文脈からしてここで該当するのは「豊穣および女らしさ」「楽園との関連で、幸福、救済、純真さ」「余暇」「神秘的な恍惚感をもたらす場所」といったところだろう。 さて、こうした象徴学によるテクスト読解は、『上なき魔法、愛』の文学的「解釈」としては有効だろうが、問題は、島の象徴的意味ではなく、それが人工の島だということである。この祝典は、フェリーペ四世の時代の技術の粋をあつめた、驚異の視覚化を極限にまでおしすすめる機械仕掛けの舞台だった。オデュッセウスの一行は本物の船で現れ、火山は実際に噴火し、宮殿は文字通り崩壊する。登場人物がなにものかに変身したり、人物が機械仕掛けで宙を舞うなどといったことは、宮廷劇では日常茶飯事であった。だが当時の観客には、なぜ人物が宙を舞えるのか、なぜ人がほかのものに変身できるのか(『驚異の魔術師』であれば人間が骸骨に、といった具合に)、そのからくりが理解できない。市民生活の埒外に、その仕組みはあるからである。演劇という表象=代行(representación)は、ここでは、表象であると同時に行為そのものである。
宮廷劇において、究極の観客は国王である。舞台上の表象はすべて国王に捧げられ、国王は、そこからすべてが見渡せる場所に座った。遠近法の消失点は国王の視線に基づいて定められる。観客の視覚は王の視覚そのものであった。しかし、視覚は触覚の代理として、官能の欲望に容易に結びつく(註20)。また、視覚的イメージには、何かしら野蛮なものがあり、フロイトが指摘したように、無意識や無意識のうちにうごめてているものにより近いという予感を人に抱かせる(註21)。すなわち、唯一絶対であるはずの国王の視線は複数的にならざるをえない。国王の視線とは、プラトンの洞窟の囚人の視線にほかならなず、中期プラトニズムの「複数の世界」を前提とする。〈世界劇場〉の認識論とは、世界は見る立場によってさまざまであるという認識である。そして視覚が五感のヒエラルキーの頂点にある以上、その複数性は否定的ではなく肯定的に扱われる。カルデロンの機械仕掛けのスペクタクルは同時代の僧侶や文学者によってしばしば批判され、バンセス・カンダーモらが擁護せざるをえないほどだった。カルデロンは〈普遍的な人間〉を描いたのではない。これはシェイクスピアも同じである。柄谷行人は言う。「シェークスピアは同時代において、普遍的と思われたラテン的教養をもった詩人たちから軽蔑されており、それ以後も黙殺されていて、やっと十九世紀初めにドイツ・ロマン主義を通して、すなわち『文学』とともに見出されたという事実を忘れてはならない。シェークスピアを普遍的なものとみなすとき、実際は、シェークスピアの文学が近松と同様に、いわば『エクリチュールの文学』であることがみおとされている。漱石は、坪内逍遥の翻訳を批評するとき、このことを指摘していたのである。シェークスピアはリアリズムでもないし、『人間』を書こうとしたのでもないのだ。『普遍的なもの』は、十九世紀の西欧においてやっと確立すると同時に、それ自体が歴史性を隠蔽するような、地方性でありイデオロギーである」。 (註22)
十七世紀のフランス演劇を分析するアポストリデスは、スペクタクルと遠近法について言う。「中世においては、スペクタクルは空の青さの単調な背景のもとに展開されていたのだが、新古典主義演劇は、装置においても心理の扱いにおいても、ある要素が背景に留まる他の要素の犠牲のもとに浮かび上がる、光と影のコントラストの演劇として立ち現れている。それは視覚的な透視画法の演劇であるが、同時に、それと離れがたく絡み合った心理的透視画法の演劇なのだ。中世の演劇は人間の外部の神話的な演劇であり、それは観客を包括して同じ信仰へと結び合わせる。十七世紀のそれは、まず自我の、人間の内面の演劇であり、国家によって引き出された個人性を表象する。観客はそこで、ドラマの俳優の意識状態を共有するがゆえに自らを認める。彼はそこで、同類から孤立しているが彼らと同じ等質的な空間で活動する自己を見出すのだ」(註23)。だが十七世紀スペインに新古典主義はなく、舞台上で表象された詩に「内面」はない。あるのは幾何学的な人物の移動と、光学による世界の複数性のみである。内面がない人物たちは、常に、自分ではない何者かを演じている。『人生は夢』のセヒスムンドは、演じることにより父王の占星術に打ち勝つのであり、『おばけ貴婦人』や『二つ扉は守り難し』の主人公の女性は、演技によって悲劇を回避する。神による救済があり得ない悲劇に対抗する唯一の手段は演技することである。スペクタクルはしばしば神話をモチーフにするが、神話とは歴史を隠蔽するものであり、歴史の隠蔽が要請されるのはひとえに同時代を肯定するためである。ロペ・デ・ベガやティルソ・デ・モリーナは同時代の詩がアリストテレスの詩学にもとづく古典的な詩より優れていると断言した。これは同時代の政治を肯定することに等しい。なぜなら「文学」や「演劇」が独立した審美的価値を帯びるのは十九世紀以降だからである。十七世紀スペインのスペクタクルは光学という科学技術がもたらす視覚の曖昧さと内面の空虚を照らし出した。ただしその空虚さは否定的なものではなく肯定的なものである。
註