えー、お馴染みさまばかりでございまして、落語のほうは、ここへ上がって、何かしゃべり出すまでは、いろんなことを考えてますな。こう言ったらば、このお客さまにたいへんいいか、こう言ったら差し違えがありゃしないかと、いろいろと頭を使っております。何しろ人間てえものは、頭を使うてえのは、そりゃあたいへんなものですな。ですから、頭が大きいおかたほど、それだけご発明だそうで。あたくしのほうの仲間にもずいぶん大きな頭の人がいますが、どうも人間がぼんやりしている。で、大学の先生に伺うと――
「いやあ、君たちのほうはダメだよ。頭が大きくたって」
「だって大きいじゃないか」
「そりゃダメ。大きくたって。味噌が少ねえんだから」
つまり入れ物だけ大きいんですな。で、味噌が端にチョイとこうくっついてる。これはどうもいけません。だから頼朝という人の頭は大きかったそうですな。拝領の頭巾梶原縫い縮めなんて。むかし頼朝公の髑髏骨を見せてた時代がありまして。
「これは頼朝公のしゃれこうべ。近う寄って御拝遂げられましょう」
「これは何? 頼朝さんの髑髏骨? 頼朝って人は頭大きいってぇがずいぶんこれは小さいね」
「これは幼少のときの」
って、そんなのはねえんだけど。おかしなもんでございますな。人によっていろいろな、あー、気の人がありますが。親子の無精てぇのがありましてな。親父の無精と伜の無精が寝そべって話をしている。親父が煙草を吸ってね。フッと吹き殻を吹くとコロコロッと転がって行っちゃう。蒲団へ燃えついて煙が出てきた。
「おとっつぁん、おとっつぁん」
「なんだ」
「蒲団が焦げてるぜ。消さなきゃダメだよ」
「そんなもの、めんどくせえ。おまえ消せ」
「嫌だよ俺は、嫌だよ、めんどくせえ」
「じゃあ、うっちゃっとけ」
「……だんだん燃えてきた。障子へ移ったよ。消さないと火事になるよ」
「んなあ、めんどくせえ」
で、親子焼け死んじゃった。これが地獄に落ちて参りまして、閻魔大王のお調べになった。
「ああ、そのほうどもは娑婆におって、めんどくせえめんどくさいと言って自火を出したな。不届き至極な奴。そういう者は、今度生まれるときには人間には生まれられないぞ。四つ足だぞ」
「ああ、さようですか。あたしの無精から始まったんです。四つ足はなんでございましょう」
「牛か馬だ」
「どうせ四つ足なら、猫に生まれたいんですがなあ」
「猫か。じゃ猫でもよろしい」
「猫でも黒い猫がいいんですよ。烏猫っての。うん、で、鼻の頭だけチッと白いのがいいんです」
「どうしてそういうのがいいんだ」
「暗いところで真っ黒い猫で、鼻の頭だけ白いってえと、おまんまっ粒があるんだと思って鼠が食べにくるやつを寝ていて食う」
中にはとても慌てる人がありますな。そそっかしいてえのがある。主人がそそっかしくて使われてる小僧がそそっかしい。
「定公や!」
「へへい!」
「あのー、向こう横町へ使いに行ってきな」
「へい!」
てんで、なんにも聞かないで行っちまう。しばらくして帰ってきて、
「向こう横町へ使いに行ってきました」
「そうか。ご苦労」
て、なんだかわからない。こういうそそっかしい人は始末に悪いもんですな。あー、もう雨に降られてぐしょ濡れになって――
「やあ、たまらない! これはどっかで傘借りなくちゃ。あ、ここのうち知ってるんだ。こんちは!」
「はいはいはい」
「あの、すいませんが、傘貸してくださいな」
「はいはい。――傘出してあげな。いま出しますから」
「じゃ、これ借りて参りますから」
「それは傘じゃない、箒だよ、おいおい! それは箒だよ!」
「ありがとうございます。借りて助かるねえ。これでいいや。ひやあああ。柄漏りでたいへんだ、こりゃ。あうううう……なんだいこりゃ? ひどいもんだねえ、あんまり雨がひどいもんだから傘が箒みてえになっちゃった」
まあ、どうにもそそっかしいですな。こういうようなそそっかしい人ばかりが集まってる長屋がある。集まったときは満足な人もいたんですがね、あんまりそそっかしいんで馬鹿馬鹿しいからみんな越してっちゃう。そのあとへそそっかしいのだけ残ってるんですから。こりゃ始末に悪いもんですな。火事なんぞがあった日にはたいへんだ。
「おーい!」
「え?」
「火事だぞ」
「え?」
「火事だぞ」
「火事?」
「うん」
「おめえがか?」
「俺……馬鹿野郎、俺が火事のわけねえじゃねえか、熱くてしょうがねえやな」
「じゃ、どこだ」
「どこだか知らねえんだい。なんか、こう、ほうぼうでもって叩いてらァ」
「何を」
「え? あの物よ」
「木魚」
「木魚じゃねえよ。ほら、あるだろ、こういう物よ。高えところにぶら下がってるン。あれ叩かなくちゃいけねえ。おまえ叩きな。よう、月番だからよう、叩けってんだよ。ああ、そうそう。登って。つかまって、つかまって、落っこちんな。ああ、で、半鐘……ジャン、威勢よく叩け、半鐘。半鐘。おめえの頭叩くと落っこっちゃうよ! え? 半鐘叩かねえのか?」
「叩かねえことは……叩こうと思うけども火事が見えねえや」
半鐘に首を突っこんでたりする。こういうように、どうもそそっかしいんですからな。だから、まあ朝なんざあたいへんでございましてな。
「おう、おうおう、おい!」
「なん……なんだなんだ。なんだ? なんだ? なんだ? なんだ?」
「なんだとはなんだ」
「何、何しに、てめえは朝、朝、来た?」
「来た? 来たって、来るわけがあるから来たんだ」
「どういうわけだ」
「どういうわけもこういうわけもねえ! んっとに、おもしろくねえ!」
「何がおもしろくねえ?」
「あのよう、てめえなんてものは、ちきしょうめ。え? いい加減にしやがれ。さァどうだ」
「何も聞いてやしねえ。何が『さァどうだ』だ」
「さァどうだったてやがって、こんちきしょうめ。ん? やめろってんだよ。朝てえものは肝腎なんだから。朝のことは一年にあるというくらいのもんだぞ。こんちきしょう。朝っぱらから、なんだ、夫婦喧嘩なんぞしやがって、みっともねえ。やめろ! 夫婦喧嘩」
「だって、俺、夫婦喧嘩、しやしないよ」
「てめえ、いましてた」
「いや、しない。俺はひとり者だもん」
「……ひとり者? ああ、なるほど。女房、なかったな?」
「うん。女房がなくちゃ喧嘩はできねえ」
「その、できねえところを無理にしてやがってたてんだ、いま。俺は、もう、知ってた。怒鳴った。『かかあ! 出てけー!』って言うから来たんだ。なんでかかあ出てけって言うんだ?」
「はあ、あっはは、こいつ、てめえ、間違え、間違えだ、そりゃ。間違いだ」
「そうかい?」
「うん、間違いだ。たいへんな間違いだ」
「うん」
「俺が、いまな、ここで煙草を一服吸ってるってえと、下駄のところへ、えー、狸が入って……あ、狸じゃねえ。あのね、うーん、狐……あの、ナニが入ってきやがったんだ。こうね、キリンじゃねえ、なんだっけな、うーん」
「象か?」
「象……象は入れないよ、こんな狭えとこから。象じゃねえんだよ」
「なんだい」
「こう、ほらよう、動物で、あのね、ほら、アレなんだよ、ん? こんちきしょうめ、てめえ思い出せねえか? ほら、なんだよ……」
「鼠なのかい」
「鼠ぃぃぃ……いちばん小さくなる、こんちくしょう。象から鼠になるやつがあるかよ。鼠よりもうチッと大きいんだよ」
「どういうんだ?」
「どういうもこういうも、あれ、そこいらを、ほら、いるだろう、こう、あー、うん、耳をピーンとしてて、尾がこういうふうになってて……アレだよ。なんてったっけなあ、アレはなあ、うん。こう、口を開けやがって。泥棒を見ると鳴くだろう」
「はあはあ、猫か」
「猫……猫、猫じゃないよ! こんちきしょう、そばまで行ってやがんね。猫のチョイと兄貴だよ。ほら、アレだよ、アレアレアレ」
「なんだ?」
「ほら、そこの、なんだ、アレだ」
「犬か?」
「いや! こんちくしょう、当てやがった、こんちくしょう。てめえは頭のいい奴だなあ。うん、犬がここんところへ入ってきたんだ」
「で、どういう犬だ?」
「どういうってほどの贅沢な犬じゃねえんだ。うん、このな、犬なんだ」
「柄は、どんな柄してんだ」
「柄なんざねえや。無地の犬だ」
「うん」
「無地。赤無地の犬がね、ここへのこのこと出てきやがって、俺の、下駄の脇にな」
「うん」
「馬糞しやがって、汚え。俺はもう、ねえ、心持ちが悪い。そいからね、俺は『こんちくしょう! 出てけ! この赤め! 出てきやがるか! 赤、出てけ!』って、こう言ったんだ」
「あ、そうか! それを俺、『かかあ出てけ!』と間違えちゃったんだ」
「そうだ、間違えたんだろう」
「うーん、憎い犬だな。ん? どうした、その犬? 逃げちゃったか? こんなのは逃がすことはねえ、そんなの叩っ殺しちゃって、熊の胆とってみろ、儲かるから」
「てめえはそそっかしい野郎だ。犬から熊の胆がとれると思うのか! 鹿と間違えやがって」
なんてんで、もう、なんだかわけのわからねえことを、言っておりますな。この、わけのわからねえ中から、またわけのわからねえ人間がひとり家を飛び出すと、これまたなお始末に悪くなっちまいましてね。
「そこに立ってる人!」
「はい? なんです?」
「うー、あうー、ここ大勢、こう人が立ってるとこ、あァた見てるでしょ」
「そうですよ」
「何があるの、中に?」
「何があるんですか、あたしにもわかりませんね」
「どうしてわからないの? 立って見ててわからねえってことはねえじゃねえか」
「いや、それがわからないんだよ」
「どういうわけで? うーん、わからねえってことはねえじゃねえか」
「それが、人が大勢いるんだからわからないよ!」
「うう、わからないって……わかれ、ちきしょうめ。わからねえって、どういうわけでわから、わから、わからねえんだよ。隙間ぐらいから見えそうなもんだ」
「見えないんだ、まるで」
「へええ。どうしてだろうな?」
「どうしてったって、人が、こう順に、こう、立っちゃってるからな」
「はーあ、浅草ってとこはダメなんだ。天気がよくて、チョイとなんかあるとすぐこう人が立っちゃうんだから。はーあ、喧嘩ですか?」
「いや、喧嘩じゃないね。静かだから喧嘩じゃないが、何か、そこにある、あるね。何もないもんを人が立って見てないから」
「へえへえへえ。あたしは人間がそそっかしいんだ、そういうもの見たくてしょうがないン。見せておくんなさい」
「おくんなさいったって、あたしが見せられないよ」
「いいじゃないかねえ、なんとかして」
「なんとか前に出なきゃね」
「ふーん、前にどうしたら出られる?」
「まあ、●●●人の股でもくぐるよかしょうがありませんねえ」
「そうですか」
「人のね、こう股を、無理に……」
「おい、俺の股をくぐりやがる。何しやんでい!」
「チョイとごめんなさい。チョイとチョイとごめんなさいよ! チョイと! チョイとチョイと!」
「誰だい、俺のケツに触んのは、こんちくしょう!」
「ええ、誰でもいいんだよ。俺は前へ出たい一心だ、こうなると。やああああ、あああ。ようやっと前へ出た……。はあ、なんにもねえや。前へ出損しちゃった、こりゃ。つまんねえな。これ、どうしてこんなに人が立ってるんだろうなあ」
「もしもし! もし!」
「へえ?」
「おまえさん、なんに、ここへ入ってきたの?」
「え? えっへへ、こんちは」
「こんちはって、挨拶なんざいいけどね。おまえさん、なんなの? おまえさんは?」
「え?」
「なんなの?」
「えー、なんなのってほどの、ま、別にあっしは、名乗るほどの人間じゃありませんがね」
「いや、名乗れてえんじゃないんだが、おまえさん、どういうわけでここへ入ってきたの?」
「へえ、うん。まだ始まらないんですかね?」
「何が始まるの?」
「独楽回すんじゃないですか」
「独楽なんぞ回すんじゃないんだよ!」
「えー、じゃ、なんで、こう大勢人が立ってるの?」
「これはね」
「ええ」
「行き倒れ」
「え?」
「行き倒れがあるの」
「へええ、ああ。で、これから始まるんですか」
「うるせえな、この人は。おまえさん、行き倒れ知らないの?」
「いえ、知らないってわけじゃありませんけれども、行き倒れ……踊るの?」
「なんだよ……じれってえなあ、この人は。おまえさんの前にあるだろうよ!」
「え? 前に? ああ! ふーん、よく寝てますね」
「寝てんじゃないの、死んでんの」
「ああ、死んでんのね。へえ、死んでんのをイキダオレってえのは、どういうわけで?」
「なんだよ……問答してんじゃないんだ、ねえ? だからあたしはね、困るから、ね、もっと向こうへ行ってくれと」
「いま行ってるんだよ。行ってるんだけど人がどかないんだ。困っちゃいますよ。顔を、顔をあたし見せて」
「いや、そんな、見ないほうがいいですよ」
「チョイと見せておくんなさいよ。ケチ」
「ケチじゃないけどもさ。見たところでしょうがないでしょう」
「いえ、しょうがなくってもあたしは見たいタチなんで。いいでしょ? よっ……ずいぶん汚い顔してますね」
「そりゃあ、こうなるまでには、汚くなりますよ」
「はあ、ねえ、ずいぶん汚えなあどうも。え? なんだいこりゃ? へへ、えー、や、うーん……おや? ちょっと待っておくんなさいよ。どっかで見たような野郎です」
「おまえさんかい?」
「うん」
「見たんならいいねえ。え? 手がかりになる。よく見とくれ」
「よく見ます。えーと、うん、うーん、あ! そうだ! そうだ! おう! どうしたどうした! やい、起きろ!」
「起きやしないよ」
「てめえ……ねえ、兄弟分ですよ。ねえ、おめえと俺は生まれるときには別々だけども、死ぬときには別々だと」
「なんだよ、あたりまえじゃない」
「あたりまえだけども、そういうことを言い合った仲ですよ、ええ。その兄弟分がこんなんなっちゃって、見てられませんよあたしは! ええ、ああ! 情けないことに……なったことになったなあ、おめえは。え? どうも弱っちゃったなあ! うん、こう、いま、しょうがありませんから、この、行き倒れで倒れてる奴をですね、ここに連れてきますから、ひとつそれで当人に死骸を渡してやってくださいな」
「……その人の、親類の人かい?」
「いえ、親類の人じゃねえんだ。当人をここに連れてきてやるから、ええ。もう変なんだよ。うん。あー、この野郎がそそっかしい野郎で、ケツが痒いと他人のケツ掻いたりなんかする野郎なんだ。ええ、そそっかしいんだよ。ええ、だから今朝ね、こいつがね、変な顔してやがるから、『てめえどうしたんだ、え?』ったら、『風邪らしい』って言いやがるから、『風邪は気をつけないといけねえぞ。風邪てえものはひどくなるてえとだんだんひどくなってきて大風になっちゃう』。ね? 大風だよ、大風です。大風で倒れたんです。風で倒れた」
「……塀だね」
「塀でもなんでも、風で倒れちゃった。倒れてる野郎なんですから」
「それはおまえさん、違う」
「どうして違うの」
「この人は夕べ倒れたんだ。おまえさんは、その、兄弟分と今朝、今朝会ったんだろ? じゃしょうがねえじゃねえか。この人は夕べここへ来て倒れたんだ」
「夕べ、『浅草行ってくるぜ』って威勢よく……これがこの世の別れとなるとは、ついつい知らずに出かけたんですよ、こいつ。で、トーンと倒れやがった。倒れておいてですね、こんちきしょうはそそっかしいから、倒れたのを忘れて帰ってきちゃった。ね? だからじつに弱るんですよ、この野郎には。ちょっと本人連れてきますから」
「おいおいおいおい! おい!」
「いやあ、どうも驚いた、こりゃ。え? 俺が通りかかったからいいようなもんだが、たいへんなことになっちゃったなあ、どうも。しょうがねえなあ。……あんなことして煙草吸ってやがる。ああいう野郎なんだからねえ。――おう! おう!」
「なんだよ。へへへ、またそそっかしいことをすると承知しねえぞ」
「何言ってやがんだい! てめえがそそっかしいんだい!」
「下駄はいて上がってきやがって」
「そそっかしいのはやめろ。てめえは、そんなそそっかしさと、ただのそそっかしさが違うんだ。な? うん、いま俺の言うことを聞いてみろ。てめえなんざ、もう、うわあっと、泣く、泣くことになるんだ。え? 人というものは、覚悟が肝腎だよ。いいか? 明日あると思う心の河童の屁ってこった。坊さんがよく言ってるだろ、なあ? 『明日あると思う心の』っていう、心がアレになってるよおまえは。ああ、驚いた」
「どうした」
「どうした? 俺はねえ、浅草の、おめえ、ナニに行ったんだ、弁天様によ、な? ……あ、弁天様じゃねえ。浅草の、おめえ、ナニに行ったんだ、あの水天宮様……浅草の、おめえ……」
「御嶽山かい」
「御嶽山じゃねえよ。浅草のあそこ行ったんだ、あそこによ、あそこ。あそこだよう! ほら、大きな……あるだろ? お堂がよう?」
「うんうん」
「あそこの……なんとか言うんだよ、あれ、なんとか言うんだな。ええと、金龍山、金龍山様のね、あのー、あの、カンカン様……」
「カンカン様? それは観音様だ」
「あ、観音様だ! こんちくしょう!」
「いて! 思い出しやがった」
「観音様。その観音様がな」
「買いに……買いに行ったのかい」
「買いにね、買いに……買いに行ったんじゃないよ。あれは売らねえんだよ、向こうで。あれはひとつっしかねえからどうしたってくれねえよ。それを買おうって、てめえ図々しい料簡出すんじゃねえぞ。俺なんざちゃんと拝んだんだ。うん、拝んでこっちへチョイと来るとな、大勢人が立ってやがんのよ! ははあ、なんか喧嘩だな、おもしろいっと思って、入ろうと思ったら入れないからよ、人の股ぐらくぐったりなんかして、おめえ、艱難辛苦いかばかりだ、おめえ、前のほうへ出てった」
「うん」
「するってえとおめえ、喧嘩じゃねえんだ」
「なんだい?」
「行き倒れだ」
「へーえ! うまくやりながったな」
「か! こんちきしょう! てめえも知らねえな、行き倒れを! 俺は嫌だ、情けなくなっちゃって。行き倒れってえんだから、俺は、生きて、えばって倒れてやがんのかなと思って、こう、よく見たらね、死んじゃってやがんだそいつがよう」
「へーえ! で、それ、てめえ、眺めていたのか?」
「いたよ、大眺めだよ、おまえ、うん。こうやって見てたんだ。汚えツラしてんだけども、面影てえものはしょうがねえ。見てるうちに、あ! こいつだ! 兄弟分だ! ――おめえだ!」
「……え? ……俺が?」
「うん。おめえなんだ」
「ふーん……倒れてた?」
「倒れてた。どうだ、驚いた?」
「……どうして倒れた?」
「さあ、どうして倒れたか知らねえ、うん。でも、これは俺の兄弟分だって、俺はそう言ってやったらね、向こうじゃ本当にしやがらねえ。『そんなこと、あなた嘘でしょ』というような顔をしてやがったから、『よし、じゃあ、いま本人を連れてきてやる』って」
「……本人って、誰……誰が本人だ?」
「おめえをよ、な? そうすりゃあ、いいじゃねえか。『本人連れてきてやる!』って、こう言ってやった。すると、向こうの奴もね、本人って言葉を聞きやがってね、もうなんにも口がきけなくなった。ね? こっちの潔白をよく向こうでわかってやがんだ。本人って言われた悲しさに向こうが、口がきけなくなったと。ざまァ見やがれってんだ! いま本人連れてきて赤っ恥かかせてやるわって、俺、飛んできたんだ。はあ……おめえ、これから行って、『これはあたしの死骸ですよ』、おまえが言わなきゃダメだよ」
「『それはあたしの死骸ですよ』と、俺が向こうへ行って、言うのかい」
「そう」
「……じゃあ、俺は死んでる……死んでるようだな?」
「し、死んでるようだなじゃねえ! てめえ死んでるんだよ!」
「だって死んでる……死んでるっておめえ、ナニじゃねえか、俺、死んだような心持ちになってねえじゃねえか」
「死んだような心持ちって、てめえ知ってるかよ? 何度死んでんだよ?」
「俺は、何度も……死にゃしないよ」
「ざまァ見やがれ、こんちきしょうめ! 死んでることなんてものはな、死んじゃっていたって、わかるもんじゃねえんだぞ本当に。てめえは今朝寒気がするって言ったときに、もうてめえは、もう死んでたんだ……どうだ?」
「はあ……じゃあ、そういう……俺は……ことになって倒れていたのか。おめえ、見たんだな?」
「見たんだよ。俺が、俺がそこを通りかかったからいいけども、通りかからなきゃてめえはいまごろどこへ行ってるかわからねえぞ、てめえは、ホントに。うー、どっかへ流されちゃうぞホントに。てめえの死骸はてめえが始末しなきゃしょうがねえじゃねえか!」
「……そりゃそうだ」
「そうだろ? だから、俺と一緒に、行きなよ! おい!」
「……行くよ。行くけどもねえ、行くけども……どうも、俺が行って、これはあたしの死骸でございますって、こう言うだろ?」
「え?」
「こう言うだろ? すると向こうの野郎がどう思うかな? そこだ、考えるところは。『ああこの野郎は情けない野郎だ。てめえの倒れたのも知らないで帰って行くような……なんてそそっかしい野郎だ』と言われる……ということは俺の名誉になってくるぞ。名誉を、おまえはどうかしようってのか、俺の?」
「そういうわけじゃねえけども、死んでるもんだからあたしの死骸でござんすって取りに行って、何もぐずぐず言うことねえじゃねえか」
「そうか」
「一緒に行こう。俺がそう言ってやるから」
「……じゃあ出かけようか」
「一緒に行こう。え? もう、とにかく、行って見ろよ! 大勢に見られてきまりが悪くてしゃあねえや、なあ? ――チョッチョッチョッチョッとごめんなさい、チョイとごめんなさいチョイと!」
「うるせえな! 入れないよ!」
「入らなくちゃならねえことになってるんだよ!」
「うー、どういうわけだい?」
「どういうわけだって入るんだい!」
「中に行き倒れがあるんだぜ」
「行き倒れの当人を連れてきたんだから、どうだ」
「なんか変な野郎が来やがった。変な野郎だなあ、どうも」
「チョイとごめんなさい。チョイと、チョイとチョイと。チョイとごめんなさい。ほら、あそこにいる人、あの人にはずいぶん世話になってるン。え? あの人。――へへへ、どうも、さっきはすいませんでございました!」
「……また来たよ、あの人。あの人、俺は嫌だよ、わけがわからなくて。――おまえさんと話してもわからないんだがねえ。で、どうしたの?」
「いえ、どうもこうもしませんよ! 本人連れてきたんだから。ね? 本人に死骸渡してやってくださいな」
「兄さん?」
「兄さんじゃない、本人だよ。ここにいますよ。見てごらんなさい。本人。――おまえ、出て、そう言いなよ。いろいろ世話になってたんだから。礼ぐらい言わなくちゃ義理が悪いよ」
「……うん、そりゃそうだ。……ああ、死ぬということは、手数のかかるもんだ。――へへ、こんちは」
「……あれも変だねえ。やだよ、わかんなくなってきちゃって! ……おまえさんはなんなの?」
「おまえさんですよ、あたし、ええ。あたしが、倒れたんです。ええ。倒れたのを、我を忘れて、家に帰ってきたン。そいで、いま、兄弟分が、『おまえがあそこに倒れてるぞ』って言われたときのあたしの驚きというものは……もう、悲しかったです。だけども、しょうがないんですよ、もう、そうなっちゃったものは、ええ。せめて死骸だけでも受け取っておかないと、すみませんからね。自分の死骸に対して申し訳ない。どうか死骸を渡してくださいよ。死骸は。ねえ。あァたが渡さないって言うのかい? 渡さなきゃあたしは出るところへ出て取るよ。自分のものを自分が取るの、何が悪い? なあ、おい!」
「そうだとも! おめえのほうで、構わねえから、早く抱いてけ」
「抱いてくとも。冗談言っちゃいけねえや、ホントに! なあ! ――おう! さァ、さァ、俺と一緒に来るんだ。こんちくしょう。俺と一緒に来るんだ、俺と。汚えツラしやがって、こんちくしょう。やあっと、なあ。俺がなあ、俺がだよ、うん、俺が、うーん、俺について、俺……俺……これ、これは俺なんだね? これは俺だね? 俺だね?」
「おまえだよ!」
「俺だね! ああ俺だ。死んでんのは俺だ! 死んでんのは俺だ! 死んでんのは俺だけども、死んでる俺を抱いてる俺は、どこの誰だろうなあ」