えー、毎度ながら、このォ、あたくしのほうは、とりとまりのつきませんことで、笑うということでございまして……。とにかく、たいへん陽気がよくなってきまして、これからですな、何をしても、酒を呑んでもうまいし、何を食べてもうまいのはこれからで……なんッでもうまいですな。買わなきゃないけれど買やぁあるんだから、いちばんいい。○○もいいという。秋というものは一年のうちの……ま、秋でございますからな、ええ。昔はね、秋になるとちゃんと知らしてくれたんです。ねぇ、赤トンボなんてのがつーっと飛んでったりなんかしてな。
「ああ、赤トンボが飛んでらァ、あ、もう秋だ」
なんてね。この頃あんまり赤とんぼ来ないよ。赤トンボ呆れ返ってどっか行っちゃったに違いない。以前はってぇと、その、えー、いくらも虫やなんかいたのはってぇと、田んぼだの池だのがあるから、それがためですな。えー、あたくしなんぞは、神田で生まれて、七つか八つ時分にはどうもこの、上野の不忍辺なんぞ、えー、一日ああいうとこは遊び場所でして。遊んでても飽きなかったから、あの時分には、ええ。いろんな虫がいたりね、とんぼがいたりします、今のような、もうね、貧弱なとんぼじゃない。昔のとんぼはってぇと大きなのがいましたからな。ええ、お車なんてのがいました、お車。お車ってえのは尻のほうにね、車がくっついてた。うん、お車ってぇんで、ええ。泥棒やんまなんてのがいました。泥棒やんま。頬っ被りして出刃包丁持ってやがる。うー、どうも、いろんなのがいたんですな。虫でもなんでも、いろんな虫がいましたよ、ええ。蜘蛛なんぞね、この頃の糸屑みたいな蜘蛛じゃない。昔は綺麗ないい蜘蛛がいましてな。え、花魁蜘蛛なんて、ええ。こう、腹ンところが、こう……黄色と桃色になっておりましてな。そして手なんざァ、こう広げてると、こういうところが束みたいになって光ってましてな。そして、こう、こういう、もうね、ドブんところひょっと覗いてみると花魁蜘蛛がこうやって、こうやってます。ひょいっと覗くと、ちょいと見ると――
、「寄ってらっしゃいよ」
なんて言う……。ええ、そういうようなわけでございますから、えー、虫にもいろいろでございますが、虫というものは、人間だって虫に支配されている。
「あの野郎、虫の好かねぇ野郎だ」
と、こういうことになる。これ、虫が嫌なんです。初めて会ったときに「こいつは嫌だ」って、こう思う。おんなしに、「やな野郎だ」って、こうなる。なんでも、こう、虫ですな、うん。虫が知らせるとか、何事も虫というものになってくる、ええ。だから、その、虫が嫌いだってぇのと、好きだってぇのがある。片っぽは青くなっちゃう、片っぽは手の上に乗っけて喜んでる。これみんな虫が好く好かない、そういうことがあるんでございますな、うん。
「だから、えー、つまり、なんだって、好き嫌いってぇのはそこを言うんだな。そう、うん。で、おまえは、どういうものが嫌いなんだ。人間って奴はなんだってな、嫌いというのはだね、えー、生まれるとね、この、なんだか知らないけど臍ンとこから水道のゴムみたいなのがぶら下がってるだろうよ、うん。あれをな、こう埋めたね、その上をね、いちばん先にカエルが這うだろ、そうすっともう生涯カエルが嫌いになってくるんだと」
「ほう」
「おまえ、なにがいちばん嫌いだ」
「え? 俺?」
「うん」
「俺はね、オケラ」
「……変なものが嫌いだね。だから、オケラが這ったに違えねえや。それで嫌なのか」
「うん。オケラって奴は嫌だね。こう捕まえてね、『どのくらいだ』って言うと、こうやりやがる。だから、俺はもう、オケラは嫌いだオケラは」
「ふーん……そっちは、何が嫌だい」
「俺の恐いのはね、ムカデだ。あいつは嫌だな、嫌だって俺ァ、ムカデ見たときに、もう、もし俺がムカデだったらどうしようと思うからな」
「おめえがムカデなわけねえじゃねぇか」
「いや、それでも俺がムカデだったらどうしようと思うよ、あんなに足がどっさりあっておめぇ、えぇ? 股引買うったって大変じゃねえか」
「嫌な野郎だね、こいつは。――そっちは、なにが恐いんだい」
「ん? 俺か? あー、俺はね、えー、ヤモリが恐いな」
「うん。そういうもんだな、みんなな。うん。――たっつぁん、おまえ何が恐い?」
「え?」
「何か恐いもンあるかい?」
「え? ないッ」
「なんか恐いものあらァなァ」
「まあ……こわいっていえば、おととい嬶の炊いた飯が強くってなァ。あれじゃ胃をやっちゃうからって、そう言ってやった」
「いや、そういう『こわい』じゃないんだよ。わかんねえなぁ、おまえは。『恐いなあ!』って思って、もう……歩けなくなっちゃうような恐いもの、なんかねえか」
「うーん……先月だよ、嬶が猿股洗いやがってな。こいつに糊をうんとくっつけちゃう。こえぇのなんのってな、歩けなくなっちゃうんだよ俺」
「この野郎、癪に障るなァこいつは。そういうもんでなく、なんか『恐え』ってものはねえかよ。ええ? どうだ、えー、トカゲなんざ」
「トカゲか? トカゲはいいな」
「いいかい」
「うん、あの、おまえ、トカゲはな、青くって光ってる奴よ」
「うん」
「あいつは草ンところピュピュピュピューッと来るだろ。え? そいつをパッとふんづかまえといて、口にパッと入れるってぇとな、トカゲの奴が舌へくるッと噛みつきやがる。噛めァ、こっちも、ウーッと噛んでやる」
「うん」
「噛みっこすンだよ」
「うん」
「こっちのほうが勝った」
「当たり前だ」
「あ、で、トカゲ」
「うん」
「それからもう、アリなんぞいやがったら、こう、ずーっと寄せといてな、飯の上にすーっとかけて、くぅぅぅっと食う」
「うん」
「アリ飯ってぇんだよ」
「うん……ヘビどうだい、ヘビ」
「ヘビなんざァ、あんなもん、頭痛がするときに俺ァもう鉢巻きにしちゃう。うん。ヘビなんてぇのはね、昔はヘビって言わなかったんだぞ。あれァなァ、ヘと言ったんだ」
「うん」
「なんだか尻っぽみたいな……なんだか尻っぽばかりで、頭と尻っぽだけの虫なんだから、なんて虫だろうなァなんて言ってると、こんなものはヘみたいなもんだったからヘって言ってたんだぞ。『ヘが行く、ヘが行く』って。しまいにビーとなって、あれ、ヘビっていう……」
「……ほんとかい」
「うん。だから、あんなものは、なんだこんなものはってんで、頭痛のするときはクルッと……するとキューッと、自分で締めなくて向こうで締めてくれる。ああ、頭痛のするときはいいな」
「……ネズミを嫌がる者がいるな。ネズミはどうだ」
「ネズミなんて大好きだ俺は、うん。あいつチョビチョビチョビって歩いてやがってな、うん、髭なんぞ生やしやがってホントに畜生め、生意気だけどもよ、うーん、でもあれ、かわいいもんだよ。うん、自分でだんだん大きくなってくんだからな、ネズミって奴は」
「……だけどもイタズラでしょうがねぇじゃねぇか」
「イタズラくらいじゃなきゃ丈夫じゃないよ、おめえ。あー、イタズラがかわいいよ」
「この野郎、なんでも恐えって言ったことねえな、こん畜生。みんな恐え、恐えって言ってるのに、てめえひとり恐くねえってぇと、ほかの者が、おめえ、へんてこになっちゃうじゃねえか。何かおめえだって恐えものあるだろ」
「ま、そう言われりゃ実は俺も恐いものあるんだ、うん。あるんだけども、この恐いもの、俺、言えねえんだ」
「どうして」
「言うってえとな、俺、だらしがなくなっちゃうからよ」
「言えぇな。構わねえから。こういうものが恐いってこと、言ってみな」
「うん……だけども、俺がひとこと言った、もういっぺん言えったって、もう俺言わねえぞ」
「うん」
「いいか」
「うん」
「俺、それ……それ言うってぇと寒気がしてくるんだから」
「へえ……おめえがか?」
「うん」
「どんなものが恐いんだ」
「実はね、俺の恐いのは饅頭だ」
「マンジューか?」
「うん」
「どこの動物だ、それァ? インドの隅のほうかなんかにいる動物だな? トラかなんか追っかけてんだろ、そのマンジューって奴は」
「うーん……そんなもんじゃないよ」
「なんだい、マンジューってのは」
「あれだよ! 菓子屋にある饅頭だよ」
「あれが、なんで恐えんだい」
「なんで恐えんだって、俺が恐えんだよ。どうしてこの饅頭が俺恐えんだろうと思ってだんだん考えたら、きっと俺の胞衣の上をいちばん初めて子どもが饅頭かなんか食いながら通って、落っことして行ったんだよ。俺、饅頭なんか見るとゾーッとしちゃう」
「ふーん! ――蕎麦饅頭は?」
「うわあ! はぁはぁ」
「恐いのかい」
「恐い! 蕎麦饅頭がいちばん恐い!」
「葛饅頭?」
「いー、駄目だ、目玉みてえな、ううー、よしてくれよ、もう寒気がしてきた」
「ホントかよ」
「瘧みたいになってくるんだ……もう饅頭のこと言わないでくれ……ううー……あうー……」
「大変だね」
「ううー、ああ苦しい苦しい……。少し寝かしてくれ」
「おう、じゃあ、しょうがねえ。おう、誰か、おめえ、蒲団ひいてやんねえな、え。うん、そこ開けると蒲団あるから、しいてやれよ。うん、寝かしちゃえ寝かしちゃえ。頭から蒲団かけてこい。――うん? 震えてるか?」
「うん、ぶるぶる震えてやがる。『恐いよお、恐いよお』つってんのが、よっぽど恐いんだなあ」
「うん。あん畜生、俺はもう癪に障ってたまんねえんだよ、あの野郎はさ。いっぺんあいつをさ、うんと恐いさせてやろうと思って。あいつ、恐くねえ恐くねえって言ってやがる。しめえに『恐』え、饅頭が恐え」って言いやがるだろ、え? あれはホントに青くなってきた」
「うん」
「そこだ。饅頭を買ってきてな」
「うん」
「あの野郎が寝ている枕元ンところに、そーっと置いてやる。な? するとあの野郎はもう饅頭のこと忘れちまいやがって、『おう、こっちでもって蕎麦でも食わねえか』って言うとね、と、饅頭がここにある。『うわあああ! うおおお!』って、あいつね、それでね、もう生き返らねえかも知らねえぞ」
「そうかい」
「うん。そうするってえと、俺たちにもなんか責任ならないかな」
「俺たち関係ねえやな。饅頭見てひっくり返って死んじまったんだもの。饅頭のために殺されたんだから、つまり餡殺みてえなもんだ」
「面白いね、そりゃあ。じゃあ、あいつ餡殺しちゃおうじゃねえか。ねえ、構わねえから、なあ? みんなでもって饅頭買えよ。構わねえから饅頭買って来りゃいいんだよ饅頭を。あいつがな、いちばん恐いってぇのをな、唐饅頭。いいかい? それからな、ええ、蕎麦饅頭、葛饅頭ってぇんだ。いいか、蕎麦饅頭買ってこい蕎麦饅頭。な、それと葛饅頭と唐饅頭。あとはいろんな饅頭、みんなでお足出し合って買おうぜ。な?」
「うん」
「で、あいつの寝てるとろこへ、こうやって積むんだ。え? おう、買ってきてくれ。いいかい?」
「うん」
「でね、あそこ、そーっと開けるんだよ。で、そーっと持ってって置いてくるだろ。で、奴、うえええって震えるのをみんなで、こうやって見てよう」
「面白いね」
「うん。――買ってきた? おうおう、誰か、持ってやれ。落っことすな。そーっと、障子開けてやれ、障子開けてやれ。ああ、こっち来て閉めてやれ。――どうした?」
「唸ってるよ。うわうう、恐いよお、うわあ恐いよおってやがる。面白えな」
「うん、構わないからよ、起こしてやれ、起こしてやれ」
「うん。――おう、どうした、どうした? おう? どうしたい?」
「ああ、うああ恐い……ああ、饅頭が恐い」
「恐いったって、もうそんな話しねえから、起きねえな」
「起きねえなって、てめえたちはそんな、こっちは汗が出ちゃって、もうぶるぶる震えて……ううう、あううう、ああ、うう……」
「もう饅頭のことは言わねえってんだよ! 言わねえから起きねえな! え? いま、蕎麦ってそう言ったんだ。みんなで蕎麦食うんだ。食うかい?」
「蕎麦……蕎麦……? 蕎麦?」
「蕎麦だよ」
「饅頭のこと言わねえでくれ、もう。あううう。汗びっしょりだ。どうして俺はホント饅頭が恐いだろうな……蕎麦饅頭って言われたときに、胸にドキーンと来て、サアーッと寒気がして、そうして我慢してると今度は葛饅頭ってきやがった。もうこれはいけないと思って、汗びっしょりになっちまった。ああ、あうう、でもいいや、なあ。もうこれで体がじゅうぶんにあったかいから――うあ! うああ! 饅頭饅頭饅頭!」
「どうしたい?」
「うああ、ううう! ううう! 饅頭! うああああ!」
「恐いか」
「何言ってやんだい、畜生、だてめえたちひでえ野郎だ。こんなことやるなんて……うあああ、うう、うええ蕎麦饅頭! ううー、ううー、恐い、恐いよ恐いよォ……(むしゃむしゃ)うーん、ああ恐い、あー、うーん、(むしゃむしゃ)恐い! ううー、ううー、ああ唐饅頭、これだ。(むしゃむしゃ)ああ、あー、葛饅頭葛饅頭。ああー、ううー」
「お、おい、俺ァ、ちょいッと覗いてみてくるから、みんなで順に見ようよ。あの野郎が恐がってるところをひとつ、穴開けて、え? ええ、うーん」
「こん畜生ひとりで見てやがる。俺にも見せろよ。あの野郎の震えてるところをよ」
「うう、うーん……震えちゃあいないよ、あの野郎。恐いよー、恐いよーって言ってやがって食ってやがる」
「あの饅頭をかい」
「そうなんだよ。みんなおめえ、一文無しになっちゃった、あいつのために。――やい、こん畜生! 恐い恐いって饅頭ぜんぶ食いやがって、いったいてめえ何が恐いんだ?」
「ああー今度はお茶が恐い」