7月3日~1982年9月19日。木曜午後8時~8時45分。
歌とコントとゲームで綴る公開番組とては13年という異例の長寿を誇った番組。ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」が子供向けだったのに対し、こちらは十代をターゲットに絞りました。
総合司会は当初斉藤務が担当、後に音楽評論家の川村ひさしにバトンタッチ。司会進行は桂三枝と笑福亭仁鶴で、後期には明石家さんまと島田紳助のコンビに変わります。
この番組でブレイクしたのが〈ザ・パンダ〉。月亭八方、桂文珍、桂きん枝、そして今は亡き林家小染の若手落語家四人で結成されたグループです。この四人とゲスト、そして素人が、コントやゲームに興じました。「三枝の名監督」というコーナーでは、三枝とザ・パンダがアドリブでコントを演じました。リーゼントのつっぱり漫才師として売り込んでいた紳助の「オレ、体弱いねん」というフレーズは有名になりました。元巨人の小林繁の物真似をして人気が出た明石家さんまが全国的な知名度を得たのもこの番組です。吉本興業のタレントを総動員し、後の〈MANZAI〉ブームの土壌を築き上げたという意味では、重要な番組です。第18回国民民間放送連盟賞、第14回日本放送作家協会賞、週刊TVガイド大賞など数々の賞を受賞しています。
10月4日~1985年9月2日。土曜午後8時~9時。作者は田村隆、福地美穂子、松岡孝ほか。プロデューサーは居作昌果。
15年間公開生放送で突っ走ったザ・ドリフターズの言わずと知れた番組。舞台装置は総額一千万を超えたという大仕掛けなもので、放送当日のスタッフは約200人。
ザ・ドリフターズは昭和39年に結成されたコミック・バンドで、創設メンバーはいかりや長介と加藤茶、仲本工事、高木ブー、荒井注。後に荒井注が脱退して志村けんが参加、加藤茶と名コンビを組みます。ただし、グループ結成には紆余曲折がありました(詳細はこちらの「ドリフターズ誕生秘話」をご覧下さい)。
番組前半は刑務所や学校、長屋、探検隊などの設定のコント、後半は「ドリフ少年少女合唱隊」「器械体操」(仲本工事がいつも優等生でした)、そしてゲストタレントが参加したショートコントなど。「志村のバカ殿」「ヒゲダンス」「ディスコ婆ちゃん」もありましたね。
コントのテーマやギャグのアイデアを練る会議は、リーダーのいかりや長介がOKを出すまで延々と続き、重苦しい雰囲気の中早朝まで続くことも珍しくありませんでした。
初期は加藤茶のギャグが炸裂。「1234、やったぜカトちゃん」「イタイのイタイのとんでけェ」「ウンコチンチン」「ちょっとだけよ」など、小学生のあいだで大流行しました。荒井注の「なんだバカヤロー」「ディス・イズ・ア・ペン」も流行りました。志村けんは「カラスの勝手でしょ」「東村山音頭」などで一躍人気者に。
ドリフのコントの特徴は子供が喜ぶ下ネタと、壮大な舞台装置。とくに装置はコント番組史上に燦然と輝く素晴らしい出来栄えでした。舞台美術担当は1943年生まれの山田満郎。750回分のセットを手がけました。ではどんな装置だったのか。ここをクリックして下さい。
1981年にフジテレビの裏番組「オレたちひょうきん族」が始まり、いわゆる〈土8戦争〉が勃発します。
10月7日~1970年3月31日、1970年10月6日~71年3月。日曜午後7時30分~9時。作者はキノトール、三木鮎郎ほか総勢42名。
「11PM」「巨泉まとめて百万円」「お笑い頭の体操」「ビートポップス」「巨泉のスター百面相」と五本のレギュラーを抱えていた大橋巨泉と、「お昼のゴールデンショー」「夜のヒットスタジオ」「どんとこい、天才!」「天下のライバル」「マエタケのおとながなんだ」「テレビ・ナイトショー」の前田武彦がメイン司会を務めたコント満載の番組です。
90分間に繰り出したコントの数は150本。台本はわら半紙で185ページ、厚さ2.5cm。一回の放送でのコントの数は史上最多ではないでしょうか。出演者は豪華を極め、コント55号、クレージーキャッツ、宍戸錠、熊倉一雄、藤村俊二、常田富士男、小松方正、大辻伺郎、朝丘雪路、うつみ宮土里、小山ルミ、キャロライン洋子、吉田日出子など数十人。第一回の視聴率は26.2%でした。ハナ肇の「アッと驚くタメゴロー」は小学生の流行語になりました。