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ドリフターズ誕生秘話

母体は1957年1月に結成された「サンズ・オブ・ドリフターズ」というバンドでした。後にロカビリー歌手として一世を風靡することになる山下敬二郎がメインボーカルで、あの坂本九も在籍していました。コミカルな要素は全くない、純粋なバンドです。この時期、現在のドリフのメンバーはひとりもいませんでした。

1960年。リーダーの桜井輝夫を中心に、ポン・青木、小野ヤスシとともに「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」が結成。巷では山下敬二郎や尾藤イサオが〈ロカビリー・ブーム〉を巻き起こしていたので、時流に乗ってこのバンドもロカビリー色を強めていき、62年に碇矢長一(=いかりや長介。2004年3月20日歿)が参加します。

いかりやは、アマチュアのハワイアン・バンドを皮切りに、55年頃からベーシストとして本格的な音楽活動を始めていました。そして、ミッキー・カーチスのバックを担当していたロカビリー・バンド、「クレージー・ウェスト」を経て、ウエスタンバンドとして人気が出ていた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に参加。このバンドでいかりやは米軍キャンプで演奏し、アメリカの一流ミュージシャンが演奏だけではなくジョークも上手いことに感銘を受けます。浅草生まれでギャグが好きだったいかりやは、司会やコミカルな演奏を始めます。それがだんだんウケるようになると、女性客はジミーを、男性客はいかりやのギャグを目当てに見に来るようになり、バンドの性格が二分されてしまいました。ジミーはコミカル路線に反対していたのです。そして、ロカビリーとコメディーの両方をやっていた「ザ・ドリフターズ」の桜井輝夫に招かれたのでした。

間もなく、加藤英文(現・加藤茶)も参加。加藤は「クレージー・ウェスト」のドラマーとして米軍キャンプ回りや返還前の沖縄やベトナムでも演奏したそうです。

1964年。桜井輝夫はいかりやにリーダーの地位を譲って引退します。こうしてバンドは「いかりや長介とザ・ドリフターズ」になりました。その矢先、いかりやのワンマン体制に不満を募らせた小野ヤスシとジャイアント吉田、猪熊虎五郎、飯塚文男、加藤茶が脱退を申し出て、新たなコミック・バンド「ドンキー・カルテット」を結成するため謀反を起こします。いかりやは「自分が辞めるから、ドリフを存続させてくれ」とまで言って説得。ところが小野ヤスシたちはすでに密かに「ドンキー・カルテット」として仕事をブッキングしていました。正式脱退していないうちに仕事をブッキングすることに違和感を覚え出した加藤茶とサックス担当の綱木はドリフ残留を決めます。いかりやは残りのメンバー探しに奔走し、ジェリー藤尾のバンド「パップコーン」にいた高木友之助(現・高木ブー)と仲本興喜(現・仲本工事)、ミッキー・カーチスや青山ミチなどのバックバンドを務めていた「クレージー・ウェスト」にいた荒井安雄(故・荒井注)を引き抜きます。

1965年。サックスの綱木が脱退。コミックバンドらしい芸名をつけようということになり、ハナ肇がメンバー全員の名付け親になりました。〈いかりや長介〉〈加藤茶〉〈高木ブー〉〈仲本工事〉〈荒井注〉はハナ肇が考えたのです。こうして「ザ・ドリフターズ」は誕生しました。

1973年。クレージーキャッツの人気を上回り、バラエティーの王座に君臨していた時、一部マスコミの間で解散説が囁かれるようになります。「人気者の加藤茶がソロ活動を始める」という噂が発端でした。もちろんドリフも渡辺プロも噂を否定しましたが、その直後、荒井注が体力の限界を理由に脱退し芸能界から引退することになります。いかりやは、代役として、ボーヤに出戻ったばかりの志村けんを抜擢し、志村は12月8日放送の「ドリフのゴリラの惑星」でゴリラの親分役でデビュー。でもこの時はマスクを被っていたので顔は映りませんでした。12月22日から正式に「見習い・志村けん」としていくつかのコントに本格的に参加するようになります。

志村がドリフに参加する経緯について触れておきましょう。

1968年2月。高校卒業間近の志村は弟子入りするため、いかりや邸を訪ねます。当時は本名で志村康徳。そしてバンドのボーヤ(付き人)としてドリフに関わるようになります。

1969年。志村はコメディアンとして早く独り立ちしたくてドリフの前から一旦姿を消します。バーテンダーなどいくつかの職業を転々として社会勉強をした志村は、一年後、加藤茶の口利きでボーヤに復帰。再び修行を続けた志村は、同じボーヤ仲間の井山淳と「マックボンボン」というコンビを結成。ドリフの地方巡業の前座として出演し始めます。「マックボンボン」での志村はツッコミで、「何を言ってるんだよ!」とツッコむとき、手ではなく足で井山の顔面を蹴っていたとか。それをみたドリフのマネージャーが「面白い新人コンビがいる」とテレビ局に売り込みを開始。この年の秋の新番組「ぎんぎら!ボンボン!」(日本テレビ)にレギュラー出演が決まります。その際二人はボーヤを辞めさせてもらうため、いかりやのもとを訪ねましたが、コンビとしての経験の浅さと持ちネタの少なさを理由に猛反対されました。

この番組は10月8日、毎週日曜午後6時半~7時の枠でスタート。作曲家の戸倉俊一が司会、歌あり踊りありコントありのバラエティーでした。「シャボン玉ホリデー」の後番組ということもあって、周囲の期待は高かったのですが、いかりやが危惧したとおり、舞台とテレビの違いに戸惑った二人はパッとせず、出演シーンは減らされていきます。番組は不調で、12月31日で打ち切り。時間帯を金曜午後7時半~8時に移動し、萩本欽一司会の「シャボン玉ボンボン」(!)というどうしようもないタイトルで再スタートしたもものの、そこにはマックボンボンの姿はありませんでした。結局、降板を機に井山は脱退。志村は別のボーヤ仲間の福田正夫をコンビに迎えるがこれもうまく行かず、行き場を失った志村は再びドリフのボーヤに戻ります。

1974年3月30日。この日の放送で荒井注は休業という名目で正式脱退。志村はドリフのメンバーとして正式に加入しました。この時のコントは名物「国語・算数・理科・社会」。志村は転校生役でした。ちなみに荒井注はその後も何度かゲスト出演し、最終回にも登場して有終の美を飾りました。