ハリー・ポッターと冬の中心でソナタを叫ぶ
作者不詳

開いた本  えっ? 何? ここが世界の中心? 中心ってつまり、どこからも遠いってことなのね。な~るほど。こんなに遠くちゃ何もみえねえや。誰もいないのかい? こんなんじゃ誰かいても、声も届かないんだろうな。なんだかさびしいな。人影のひとつでも見えようものなら、大声で、ソナタ、チコウヨウレ、なんて叫んじゃうな。
 ――セントリペーターは戸惑っていた。世界の中心に来たのは良いが、中心とはほかならぬ無人の地であることに気づいたからだ。
 まったく、誰も教えてくれないんだもんな。
 ひとりごちながらセントリペーターが前方を見ると、はるか彼方からきらきらと輝く光が見えた。車のフロントガラスが光っているのだろうか。鏡か。目をこらして見つめると、光はセトリペーターに向かって進んでいるのがわかった。瞬きをするたびに、その光は大きくなった。どれくらい時間が経っただろう、気がつくと眼の前に黒いマントを羽織ったひとりの少年が立っていた。眼鏡をかけ、首には長いマフラーをまいている。頭は丸坊主だ。光っていたのは頭だった。
 「やあ」
 にっこり笑って少年が言った。
 「お待たせ」
 「君は誰だい」
 セントリペーターは手で目を覆いながら訊ねた。少年の頭が眩しくて目を開けていられなかったのだ。
 「いやだなあ。忘れたの?」
 「会ったことないと思うけど」
 少年は一瞬きょとんとしたものの、すぐに事態を飲み込んで言った。
 「覚えてないのも無理はないよ。なにしろ僕たちが別れたのは五十年前なんだからね。名前を言えば思い出してくれるかな」
 「何ていう名前なの」
 「ハリー・ヨンジュ」
 少年は名乗ると、にっこり微笑んだ。四十代の閑な主婦が見たら悶えて失神しただろう、眩いばかりの笑顏だった。
 「君の笑顔はいやに眩しいじゃないか」
 セントリペーターはその名を聞き、その笑顔を見てもまだ目の前の人物に関する記憶を引き出すことができずにいたけれども、時間稼ぎにそう言ってみた。
 「でしょう? なにしろこの笑顔ひとつで今まで生き抜いてきた」
 笑顔ひとつで生き抜いてきたとはどういうことか。彼にはうまく想像できなかったけれども、確かにそう言って笑ったハリー・ヨンジュの笑顔は、今やそれのみで生き抜いてきたものの自信に満ちているようでもあった。
 「そうか。それで生き抜いてきたか」
 「ああ、色々あったけどね」
 「何しろ五十年だからな」
 「思い出してくれたかい?」
 軽はずみに思い出しと嘘をつくこともできず、かといってその笑顔に迫られては、否と答えてそれを壊すのも申し訳ないようで、セントリペーターは黙り込むのだった。
 セントリペーターにとって不可解なのは、彼が口にした五十年の意味だ。
 自分はまだ30歳代後半なのに、どうして五十年前から知り合っていたというのだ。
 輪廻転生?
 記憶の奥底に前世の邂逅が記録されているというのか?
 うまく考えがまとまらない…。
 思わず天を仰ぎ、腕組みをするセントリペーター。傍らのペリエに手を伸ばし、少量を口にするが、心鎮めることは叶わない。
 こいつのこの笑顔は何なんだ!
 ハリー・ヨンジュの風貌が、セントリペーターを余計に混乱させる。どうみても20歳代後半のすがすがしさ。中年女性を悩殺するこの笑顔の下に、どうして五十年の歳月がしわを刻んでいると想像できようか。
 待て、待て、待て。
 なんか編だぞ。
 こいつ、モーフィングの術を使っているのか?…。
 吸い込まれそうな瞳の色に気をとられていたが、顔の輪郭はどこかしら変化している。冷静に考えてみると、コンピュータ・グラフィックスで複数の顔が徐々に入れ替わるトランザクションが目の前で実際に起こっているのかもしれない…。
 数分前は少年の顔だった。たしかに、そう、たしかに。
 なのに今は青年のおもざしだ。
 風貌に惑わされるとこいつの本性を見誤るかもしれないぞ。
 オレのなかの警戒ベルがこぞって鳴り始める。
 「心眼」で見よ!
 まるで啓示を受けたかのように、こんな台詞が頭を支配してきた。
 「心眼」っていってもな。いったいどうすりゃ「心眼」が出てくるんだ? そうした思いも同時に持ったのだけれども、ともかく、目を閉じてみた。
 「ふっふっふっふっ」
 ハリー・ヨンジュの笑い声が聞こえる。
 「どうやら気づきつつあるようだな」
 閉じたまぶたに移ったハリーは、みるみる溶け出し、飴のようだ。
 いや、アメーバか? 
 待てよ、昔、なにかこれに似たものがあったな。……何て言ったっけ? そうだ! スライムだ!
 いまや巨大なスライムと化したハリー・ヨンジュはその触手だか原形質だかをセントリペーターに伸ばしつつある。
 「さあ、行こう」
 それが声なのか、それともただの風の音なのか、少なくともセントリペータには、そう聞こえた。ハウリングを起こしたように、低い周波数で震えている声であった。
 催眠にかかったように、よろよろとハリー・ヨンジュの動きを追いかけた。
 それは、水の中なのか。水にしては粘りけがある。薄いとろみのある液体の中にいる感覚なのに、息苦しくはない。深呼吸をしてみた。呼吸はできている。
 いま、ここで眼をあければ、と思ったが、先ほどハリー・ヨンジュの影を認めたのは幻だったのか。眼はすでに閉じられていないはずだ。けれども、まぶたが重い。夢だったのだ、セントリペーターは夢のなかの無力をもちろん知っていた。
「では、なぜ逃げようとするのだ」
 三半規管のほんの少し外側から、ハリー・ヨンジュは問いかける。
「逃げる? いつから僕は追われるようになったんだろう。これも夢のなかだから、そうさ、夢だからだ」
 やがて目のまえに、ゼリー状の幕がおり、幕は七色の光を放った。
 「思ったより単純だね、君は」
 ハリー・ヨンジュの声が三半規管に突き刺さる。セントリペーター思わず耳をふさごうとしたが、粘り気で手が言うことをきかない。シリコンを貯めたプールで泳いだらこんな感じだろうか。
 「単純というより、ナイーブだね。夢かどうか、ここを触ってごらんよ」
 ゼリー状の幕がオーロラのように輝いている。ちょっと顔を突き出せば鼻があたる距離。まるでジェームズ・キャメロンの『アビス』に出て来る液体生物だ。映画のメアリー・エリザベス・マストラントニオはエド・ハリスが止めたにも関わらず、液体生物の食指のような部分を指で触ったっけ。幸いなことに今ここにはエド・ハリスはいない。夢なら覚めるだろう。どうせ覚めるなら、触ってみてからでもいいじゃないか。セントリペーターはオーロラに人差し指を伸ばした。指先をひんやりとした触感が襲う。
 『ひんやりとした触感…』それはセントリペーターだけのものだろうか?エド・ハリスにも、メアリー・エリザベス・マストラントニオにも、ハリー・ヨンジュにも、そして中村和子にも、なぞめいてそしてなぜか卑猥な様相を帯びた『ひんやりとした触感』の経験はあるに違いない。その触感は指先で感じなければならない。そしてさらに、くちびるで感じることも可能である。
 「この指先はあなたのものよ」
 和子は日曜日の朝のような白っぽい声でセントリペーターに言う。セントリペーターは和子の指先を触ったのだろうか?和子はオーロラに身を投げ、白い衣裳のすそを濡らしながら宇宙の虹となったのだ。夢の中で白い衣裳の白っぽい声の和子は、液体生物のような指をセントリペーターの指に絡め、そうしてそれをゆっくりと彼女のくちびるに持っていった。
 オーロラ全体に和子の声が溶け出し滲みはじめた。
 「ハリーはご飯を食べるかい」
 日曜日の朝のような声で女が言った。和子なのか。
 「いいえ。今朝からまだ何にも食べません。暖かくして、炬燵に寝かせておきました」
 返事をしたのも女だ。誰だろう。ハリーはハリー・ヨンジュのことだろうか。最初は幻聴だと思ったが、セントリペーターが足許を見ると火鉢がある。ここはどこだ。どうでもいいが寒い。水仙がすっかりしぼんでいる。白磁の花瓶だ。何だか知らないが滅法寒い。セントリペーターはうずくまって火鉢に手をかざす。
 「どうも困るな。ご飯を食べないと、身体が疲れるばかりだからね」
 「そうでございますとも。私たちだって、一日ご飯をいただかないと、あくる日はとても働けませんもの」
 女は犬か猫のことでも話している口振りである。
 「お医者さまへは連れて行ったの」
 「ええ、あの医者は妙よ。私がハリーを抱いて診察室に行くと、風邪でも引きましたかって私の脈をとるんです。いえ私ではありません、これですってハリーを膝の上に直したら、にやにや笑いながら、こいつはわしにもわからん、放っておけば今に治るだろうってんですよ。ひどいじゃありませんか。腹が立ったから、それじゃ診ていただかなくてもようございますって、ハリーを懐に入れてさっさと帰ってきました」
 「ほんとうにねえ」
 「ほんとうにねえ」
 あまり聞かれる言葉ではない。妙に丁寧である。
 「それに近頃はBSEとかいうのも流行ってきて」
 「ほんとうにこの頃のようにSARSだの西ナイル熱だのって新しい病気ばかり増えたんじゃ油断も隙もなりゃしないわね」
 「あなたも気をつけてね」
 「そうかしらねえ」
 何なのだ、このふたりは。
 「あ、あの・・・」
 セントリペーターは、思い切って声を出してみた。そうでもしないと自分の存在を確認できなかった。だが、声はかすれてうまく出ず、このささやかな存在確認の作業も無視されてしまうのかと思うと、彼は自分が消えてなくなりそうな敗北感を感じた。
 ところが、彼女たちは二人とも声に反応して彼のほうを振り返った。
 そしてしばらくじっとしている。
 四つの目に見つめられて、セントリペーターはまた動けなくなった。
 何か言わなければ。この沈黙は重すぎる。
 「あ・・・あの・・・、ここは・・・?」
 女たちはじっとこちらを伺っている。
 まるで突然街角で出会ってしまったネコのようだ。
 「ここは・・・どこですか?」
 すると一人の女が口を開いた。
 「あら、この子も病院へ連れて行かなけりゃ。まったくもって今日は厄日だこと。またあの医者に会わなければならないなんて、後生だわ。」
 そして彼女はセントリペーターの質問に答えることなく彼に歩み寄り、ツイと彼を持ち上げてしまった。
 そのとき、女のつぶやきがもれた。
 「後生だから、改行するときは、一文字分、下げるのかどうか、教えて」
 セントリペーターは、驚愕のあまり、
 「アナタハ、神ヲ信ジマスカ」
 と言うつもりで、蟹の泡を吹いた。女は蟹の泡を吸いつくし、セントリペーターは意識を失った。
 「ここは……どこですか?」
 目覚めたとき、セントリペーターはサントルペヨングと改名した悪夢を思い出している。さあ、出立の時がきた。
 突然、鼻先につんと潮のかおりがした。生暖かい風がセントリペーターの頬をなでる。足元には甲板だ。見上げると大きな白い帆が風をはらんで巨人の母親の腹のようにふくらんでいる。
 とつぜん背後からばさばさと海鳥が飛んできて、セントリペーターの肩に止まった。
 「おい、お前こんなところで何をしている」
 海鳥が黄色い濁った目を光らせ、嗄れ声で話しかけた。
 「何しとるて・・・こっちがききたいっつの」
 セントリペーターは自分の耳を疑った。
 何でわてコテコテの大阪弁やねん?
 海鳥がまた叱責するような口調で言った。
 「おい、お前、誰の許可を得てここにいるのだ?」
 セントリペーターは海鳥を見た。顔はバイキンマン似、豊満なおっぱいにはブラジャー、足は6本あった。足が6本あるなら昆虫に分類される海鳥だろうか。
 「ねえちゃん、人にもの聞く時は最初に自分から名前言うて挨拶するんが筋とちゃいまっか。」
 セントリペーターはナンパを試みた。
 すると海鳥は高らかに言ってのけた。
 「我こそはセントリペーターなり!!」
 「言うに事欠いてセントリペーターて、あんた」
 セントリペーターは呆れて答えた。
 「セントリペーターはわしや」
 「あんたのことなんか知らんわ。我こそはセントリペーターなり!」
 「いちいち叫ばんでもええ。どうでもええけど、邪魔くさいわ。降りんかい」
 海鳥はふたたびばさばさっと羽ばたいて、傍らの杭にとまった。
 「それにしてもけったいな恰好やな」
 「ほっとき」
 「なんやその恰好。足が六本て、どないなってるねん」
 「余計なお世話じゃ」
 「まあ足はええわ。その、そのブラジャーはなんじゃい」
 「ははーん」
 海鳥が鼻を鳴らす。
 「あんた、わてのこと“ゆんさん”や、そう思うてるやろ」
 「なにが」
 「なにがて、お見通しや。このガラス頭」
 「人つかまえてガラス頭て」
 「そらたまに大阪弁にもなるけどな」
 「たまにて、最初からずーっと大阪弁や」
 「我こそはセントリペーターなり!」
 天を聾さんばかりに海鳥が叫ぶ。驚いたカモメが心臓発作で海にぽちゃりと落ちる。
 「ほな何か、証拠でもあるんかい」
 「あるわい」
 「聞かせてもらおか」
 「うちは辰年ですねん」
 「そんなもん証拠にならん」
 「まあ聞きなさい。昭和十五年生まれ、誕生日は十一月九日。小豆島の肥土山(ひとやま)というところで生まれたことになっとる」
 「なっとるて、はっきりせんのかい」
 「うちの家は貧乏やったから、そのへんのことは誰もはっきり覚えてへんのや」
 「ふん」
 「小さいときのことはうちが覚えていること以外は全部はっきりせん」
 「ま、ええわ。それで?」
 「肥土山というのは小豆島でいちばん大きい土庄(とのしょう)という港町から、ひと山もふた山も越えた谷あいにある小さな田舍町や。本名は林キミコ」
 「ハヤシキミコ?セントリペーターちゃうんかい!」
 「だから本名いうてるやろ!セントリペーターは芸名じゃ」
 「芸名?」
 「アーティスト・ネームやな」
 「横文字にせんでええ」
 セントリペーターは苛立って、せいいっぱい横槍を入れる。海鳥はおかまいなしに身の上話を続けた。
 「家は信じられんほど貧乏やった。おとんは前は造船所に勤めていたんやけど、胸の病気が悪うなって、うちが生まれたころは天理教小豆島文教所の会長をしてた。肩書は会長でも、信者は十人そこそこ。収入だってタカが知れてる。家計を助けるため、おかんは近くの炭鉱へ石炭拾いの日雇いに行ったり、旅館の下働きに行ったりしてたけど、あいかわらず生活は火の車、そんな貧乏のまっただ中にうちが生まれたんや。しかも未熟児。信じられん話やけど、夏ミカンくらいの大きさしかなかったそうや」
 「ちょっと待ち」
 「なんや」
 「お前、鳥やろ」
 「それがどうした」
 「鳥やったら、夏ミカンくらいでちょうどええのとちがうんかい」
 「細かいことはええやろ」
 「細かいことあらへん」
 海鳥が眉をしかめる。セントリペーターの目が釘付けになる。鳥に眉があったなんて。
 「それに天理教の会長て、鳥に会長務まるかい」
 「あんた証拠聞きたいのとちゃうんかい!」
 ものすごい剣幕である。
 「ああ、悪かった。ほな、聞かせて」
 「なんとか育てて初めて迎えた夏や」
 海鳥が呼吸を整える。
 「おとんもおかんも仕事に出かけると昼間は赤ん坊のうちひとり。ここらは蚊の名所だから、赤ん坊が蚊に食われたら大変と、おかんはうちを四畳半の部屋に寝かせて、そのまわりに蚊取り線香を六本並べた」
 「ふん」
 「さすが蚊取り線香六本の威力はたいしたもんや。蚊は一匹も入ってこられん。それはよかったんやが、しばらくすると狭い部屋いっぱいに蚊取り線香の煙がたちこめた」
 「そらそうやろう」
 「うちはまったく呼吸ができない。そのまま意識を失ってもうた」
 「・・・」
 「おとんとおかんは、ないお金をはたいて医者へ連れていった。三日目、『今夜鳴かなかったら、その時は諦めるしかありませんな』。うちを抱いて連れて帰る帰り道、うちは小さな鳴き声をあげて助かったんやそうや」
 「・・・」
 「え?」
 何も無かった。
 突然、海鳥は甲板を駆け出し、そのままばさっと翼を広げて空に舞った。
 「・・・飛ぶのに助走が要るんかい」
 ばさ、ばさ、ばさと海鳥は飛んでいく。
 やがて見えなくなった。
 太陽が沈み、辺りが暗闇に包まれたころ、セントリペーターは気付いた。
 「・・・・逃げよった・・・・」
 中途半端な身の上話はなんだったのか。辺りの暗闇は星を飲み込み、海を飲み込み、セントリペーターをも飲み込もうとしている。このままでは、赤福になってしまう。
 「赤福になるのは、イヤだ!」
 水羊羹なら許せるのに、と薄れゆく意識の中で考えつつ、しかしセントリペーターはつぶあんよりこしあんのほうがやはり上品だと確信した。
 「おいら、なんべん意識を失のうてしまうんや。いわゆるところぉの蒲柳の質ちゅう奴やなあ。因果なタチやで」
 ぶつぶつ言うておりますうちに、船は、はや、津の港に着いた。
 「おい、津だよ。おまえ、ケガはないか」
 おみなの声はすれども姿は見えず。
 「えっ、津? やっぱり赤福にされそうや。おら、いやや。堪忍してえな、正味の話」
 セントリペーターのつぶやきに、見えない怪しのおみなの声がかぶさる。
 「津というのは、港のことさ。おまえは日本国に着いたんだ。のどが渇いたろう。まずは水を召しませ」
 なれなれしいのか、慇懃なのかわからない口説が終わらないうちに、暗闇から、ぬっとつきでたかいながセントリペーターを抱き寄せた。
 「うぐ」
 呼吸ができない。長い腕(かいな)がセントリペーターの首をぎりぎりと締め上げる。チョークスリーパーだ。ギブアップ!おいレフェリー!さっきからタップしてるじゃないか。早くゴングを打ち鳴らしてくれ。早く・・・。
 真っ白だ。何もかも真っ白。ここはどこだ。僕は夢を見ているのだろうか。頭の芯がぼんやりしている。仰向けに横たわっていたセントリペーターが上体を起こす。痛い!頭が割れそうに痛い。
 右腕の脇の下に紙切れが落ちている。セントリペーターは頭の痛みを堪えて紙片をつまんだ。紙の下には航空券があった。紙切れには短いメモが書いてあった。
 「世界の中心。ローマ・マルグッタ通り51番地。ヘルプ・ミー。」
 航空券はローマ行きのアリタリア航空だった。出発日時は・・・十月七日午後八時。三時間後だ。
 メモを発見する。メモには住所。そして航空券。セントリペーターはただちにメッセージの意味を了解した。「そこに行け」という意味だ。誰だか知らないが、助けを求めているらしい。しかも、ほかでもない僕に。
 セントリペーターは航空券を握り締め、タクシーを探した。成田だ。成田へ行かなくては。でも今いるこの場所がどこなのかさえ、セントリペーターは知らない。
 映画で犯人が車で逃走した直後のように、タクシーはやって来た。成田まで、とセントリペーターが告げると、風采の上がらない運転手はセントリペーターを横目でちらりと見て、怪訝そうな顔をして言った。
 「成田って、空港?」
 「そうだ」
 「四時間くらいかかるよ」
 「それじゃ間に合わない」
 「出発は」
 「八時」
 「無理だね、今からじゃ」
 「何とかならないか」
 「ならないね。ヘリコプターなら別だけど」
 「ヘリコプター?」
 「うん。あそこのね」
 運転手がフロントガラスの向こうを指差す。ヘリポートだ。
 「ヘリポートまで。急いで!」
 運転手は面倒くさそうにエンジンをかける。ヘリポートには二、三分で着いた。セントリペーターはタクシーを降りると滑走路に向かって走った。カウボーイハットをかぶった小柄な男がヘリのボディを磨いている。管理事務所らしい建物から、こら、入っちゃだめだと、男の叫び声がする。セントリペーターはお構いなしにカウボーイの元に走った。
 「成田まで!」
 「坊や。ずいぷん急いでるようだな」
 カウボーイはセントリペーターを見もせずボディを磨き続ける。
 「FBIにでも追われてるのか。厄介な仕事はご免だぜ」
 カウボーイはトミー・リー・ジョーンズに瓜二つだった。セントリペーターは思わずサインをねだりたくなったが、今はそんなことをしている場合ではない。
 「成田まで飛んでくれないか。時間がないんだ」
 「そう慌てなさんな。今日は風が悪い」
 「いいから、早く。金ならいくらでも払う」
 カウボーイが振り返り、初めてセントリペーターの顔を見る。
 「坊や。俺は金では飛ばん。飛ぶか飛ばないかは俺が決める。それがルールだ」
 「議論している暇はないんだ。ローマに行かなくちゃいけないんだ」
 「ローマ?」
 カウボーイの眉間に皺が寄る。
 「ローマって、ブルガリアの首都の、あのローマか」
 「ブルガリアの首都はブカレストだよ」
 「知ってるさ。ちょっとボケただけだ」
 「ウソだよ。ブルガリアの首都はソフィアさ。ブカレストはハンガリーだよ」
 「ハンガリーって、ルーマニアの植民地のハンガリーか」
 成田は遠のくばかりである。セントリペーターは苛立ちを抑えることができない。
 「ごちゃごちゃ抜かさんと、はよ飛ばさんかい!」
 「関西弁で言われちゃ仕方がないな。乗りな」
 トミー・リー・ジョーンズ似のカウボーイは急に従順になり、セントリペーターをヘリに乗せ、エンジンを始動した。
 「ローマ、だったな」
 「え?」
 「ちょいとかかるが、辛抱しろよ」
 「成田だよ。八時の飛行機なんだ」
 「今からじゃ間に合わない。このままローマに向かった方がいい」
 「ヘリで?」
 セントリペーターの質問はプロペラの轟音にかき消された。窓の外を砂塵が舞う。ふっと機体が持ち上がったかと思うと、ヘリはぐんぐん上昇した。
 「あいやあ、もう雲のなかやで。視界、ないで、牛飼いはん」
 カウボーイの答えのかわりに、ハリー・ヨンジュの笑い声が聞こえた。
「どうやら気づきつつあるようだな」
 閉じたまぶたに移ったハリーは、みるみる溶け出し、飴のようだ。
 待てよ、昔、なにかこれに似たものがあったな。これは、たしか4ページか5ページにでてきたぞ。のどの奥からふりしぼった、しゃがれ声を出してみる。
「ええんのか? ほんまにこれでええとおもとんのか? 後悔するのは、あんたやで」
 あんたって、だれのことだ。ほら、そこでくびをひねっている、あなたのことだ。
 「え?わたしですか?」
 セントリペーターが我に返ると、背後から女の声がした。
 「コーヒー、サンドイッチ、草加せんべい、崎陽軒のシュウマイでございます」
 後ろを振り返ると、座席に女が座っている。ヘリコプターに機内サービスがあるとは。
 「コーヒーください」
 「砂糖とミルクはおつけしますか」
 「ミルクだけ」
 「ポテトはいかがですか」
 「ポテトもあるの?」
 「まちがえました。シュウマイはいかがですか」
 「いらない」
 セントリペーターは紙コップに注がれたコーヒーを受け取った。窓の下に黒い海が広がっている。相模湾だろうか。コーヒーをひとくち飲んだセントリペーターはびっくりしてぶぶっと吹き出した。
 「これ、ウーロン茶だよ」
 「ウーロン茶でございます」
 「コーヒー頼んだんだけど」
 「おい坊や」
 トミー・リー・ジョーンズ似のカイボーイが操縦棹をぐいっと押し込み、どすの利いた声で言った。
 「おしなしくしてないと、これだぞ」
 セントリペーターの腰がふわっと浮き、顔が真下を向いた。機体が一気に下降する。ガラス窓に茶色い液体がどばっとかかる。
 「うわあ。わかったよ、静かにするから、元に戻してよ」
 「坊や。俺のヘリはウーロン茶なんか飲まないぜ。飲むのはオイルだけだ」
 白く泡立った波がセントリペーターの顔にぐんぐん近づいてくる。もう駄目だと思った瞬間、体が背もたれに押しつけられた。視界にはふたたび青空が広がった。人心地ついたセントリペーターはカウボーイに訊ねた。
 「さっき黒い海が見えたけど、あれはどこの海?」
 「わからないのか」
 「わからないから聞いてるんです」
 「黒海に決まってるだろ」
 「相模湾じゃないの」
 「あれを見ろ」
 カウボーイが地表を指さした。岸辺に巨大な看板が見えた。看板にはアルファベットが並んでいた。
 「ビー、エル、エー、シー、ケー・・・。ブラック・シー。ブラック・シーって、黒海のこと?」
 「そうだ」
 「じゃあ、あそこに付き出ているのは・・・」
 「クリミア半島だ。あっちがアナトリア半島。向こうに広がっているのはバルカン半島だ」
 「いつの間にこんな遠くまで・・・」
 「坊やがウーロン茶を飲んでる間にだ」
 背後からいい匂いがする。振り返ると女がシュウマイをもぐもぐ食べていた。
 「おいしいですか」
 「ええ。とっても」
 「坊や。これがイスタンブールだ」
 眼下に巨大な都市が広がっている。蟻ほどの大きさの人間がひしめき合っているのが見えた。
 「あっちを見ろ」
 セントリペーターは言われたとおりに斜め左後ろを見た。
 「あれがコンスタンティノープルだ」
 「え?」
 「反対側がビザンティンだ」
 「それって、ぜんぶ同じ町じゃないの」
 「坊や」
 カウボーイは表情も変えずに答えた。
 「思っていたほどバカじゃないようだな」
 その時だった。地表から断末魔の叫びのような声が聞こえてきた。
 「E・U・に・入・れ・て・く・れー!」
 「言わなくてもわかるな?」
 カウボーイがニヤリと笑った。
 「トルコ、だね」
 「ああ、そうだ。ローマはもうすぐだ。いっちょ飛ばすか」
 ヘリのスピートが増す。カウボーイが鼻歌を歌い始める。
 「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン、レット・ミー・シング・アモング・ゾーズ・スターズ・・・」
 「れっと・みー・しー・ほわっと・すぷりんぐ・いず・らいく・おん・じゅぴたー・あんど・まーす」
 「なんだ、坊や、知ってるのか」
 「うん。ぼくのパパ、フランクっていうんだ」
 「なんだって!」
 カイボーイは腰を抜かさんばかりに驚く。
 「坊やはシナトラの息子なのか」
 「ううん。ザッパだよ」
 「おどかしっこなしだぜ」
 地中海特有の白い町並みが見えてきた。眼下のハイウェイにアルファベットが縦に並んで見える。
 「エー、エム、オー、アール。AMOR。アモール?アモールって何?」
 「スペイン語だ。“愛”という意味だ」
 「じゃあ、ここはスペイン?イタリアは通り越しちゃったの?」
 「逆から読んでみな」
 「逆?アール、オー、エム、エー。ローマ!」
 「坊や。住所はどこだった?」
 「住所?」
 セントリペーターは旅に夢中でメモのことすっかり忘れていた。ズボンのポケットをまさぐる。ない。どこにしまったっけ。シャツの胸ポケットにもない。顔から血の気がひくのを感じた。「ヘルプ・ミー」と書かれたあのメモには、ローマの住所が書いてあった。そのメモが、いくら探しても見つからない。
 「これですか」
 後部座席から女がにゅっと手を出した。メモだ。
 「ありがとう」
 「さっき落としましたよ。黒海の上空で」
 「ああ、あの時か」
 「シュウマイはいかがですか」
 「いらないってば」
 セントリペーターはカウボーイにメモを差し出した。カウボーイは胸のポケットから眼鏡を取り出して鼻先にひっかけ、メモを遠くに離して眺めた。
 「おじさん、目悪いの?」
 「老眼さ」
 「ふーん」
 カイボーイがメモを読む。
 「世界の中心。ローマ・マルグッタ通り51番地。ヘルプ・ミー。」
 「僕、そこに行かなくちゃならないんだ」
 「マルグッタ通り51番地?どこかで聞いたことがあるな。だがあいにくどこだったか思い出せない」
 「おじさん、案外役立たずだね」
 「うるさい。こういう時は検索だ」
 「ケンサク?」
 「このヘリはネット対応なのさ。いつでもどこでもオンラインで繋がっている。このパネルをご覧」
 操縦席の横の小さなモニターがオンになった。Google の検索ページが映し出された。カイボーイがモニターの下のキーボードをカタカタと叩く。「RomaMargutta 51」。検索。
 「やっぱりだな」
 「なにが」
 「ローマの休日だ」
 「ローマの休日って、映画の?」
 「新聞記者のグレゴリー・ペックが住んでいたアパート、あれがあったのがマルグッタ通り51番地だ」
 「そこなんだよ。僕が呼ばれたのはそこなんだ。でもどうして・・・」
 「それにしても“世界の中心”っていうのは、俺にもさっぱり見当がつかねえ。おっと、ヘリポートだ。着陸するぞ」
 ローマの町並みを見下ろしながらセントリペーターは彼を待ち受ける冒険に胸が弾むのだった。
 灰褐色。見渡す限り灰褐色の街だ。オレンジ色のバスが石の建物のあいだを縫って走っている。円形のヘリポートに向けて機体が高度を下げる。上空からはわからなかったが、近づくにつれてあちこちに黒い穴が空いているのが見えてきた。
 「あそこに降りるの?コロッセオに似てるね」
 「坊や。黙ってろ。さもないと振り落とすぞ」
 「でも、地面がごつごつしてるよ」
 片隅を占める小さな半円形の台の上に、人間が大勢集まっている。足許の遺跡を覗いている老夫婦、ヘリに向かって両手を振る子供、ビデオで撮影する若者、ヘリなど眼中になく抱き合うイタリアンなカップル。
 その数がだんだん増える。地上までは二十メートルくらいだろうか。半円形の台の中央から反対側の隅まで延びている通路が黒山の人だかりだ。何か叫んでいるが、轟音でヘリには聞こえない。
 「どう見てもコロッセオだよ、ここ」
 「坊や。減らず口を叩くと・・・」
 ピキン!と音がしてフロントガラスに火花が散る。セントリペーターは思わず目を閉じる。またピキン!
 「ちくしょう。撃ってきやがった」
 「え?」
 セントリペーターは足もとにガラスから下を窺った。自動小銃を撃ちまくっている。警官だ。どこの国でも警官は見ればすぐに分かる。それも一人や二人ではない。足もとのガラスがひび割れる。咄嗟にシートに身を埋めると後ろの座席が目に入った。女は横腹から血を流して死んでいた。口には食べかけのシュウマイがぶらさがっていた。
 「早く逃げてよ」
 「坊や。頼むから黙っていてくれ」
 「このままじゃ殺されちゃう」
 「燃料切れだ」
 「そんな・・・」
 「突っ込むぞ。しっかりつかまってろ」
 「突っ込むって、あそこに?」
 「坊や」
 「なに」
 「マルグッタ通りに行ったら、市場でモッツァレラチーズとトマトを買うんだぞ」
 「どうして」
 「うまいからさ」
 トミー・リー・ジョーンズ似のカウボーイが操縦棹を深く押し込む。半円形の足場から一斉射撃をしていた警官たちが雲の子を散らすように逃げる。機体がふらふらと泳ぎ、コロッセオの中心に向かって傾き、機体が通路に乗ったと思った瞬間、ペントリセーターの視界がぐらりと斜めになり、爆音が轟き、辺りが真っ赤になった。
 セントリペーターが目を開けると暗がりで、辺りは迷路のような造りの廃墟だった。頭上でゴウゴウと炎が燃え上がり、黒い液体が雨のように降っている。足もとにはヘリコプターの機体の残骸らしき金属片とガラスが飛び散っている。コロッセウムの地下で命拾いしたことを知ったペントリセーターが上を向くと、オイルの雨の向こうに警官たちが自動小銃を構えてこちらに狙いを定めている。逃げようと体を起こす。右足に激痛が走る。どこかにぶつけたらしい。と、かたわらの穴から老人の声がした。
 「こっちじゃ」
 「え?」
 「早く。撃たれるぞ。これにつかまりなさい」
 杖のような棒が眼の前に現れた。セントリペーターが無我夢中でつかまると、棒はぐいぐいとセントリペーターの体を穴の奥に引っ張っていった。
 どんどん奥へ行くにつれて、寒さを感じるようになる。ひどく暗く、独特の生臭さと静寂だ。時々、セントリペーターの頭にぴちゃっと水が滴り落ちる。
 「ずいぶん奥まで来ちゃったね。」
 セントリペーターが老人に声をかけた。
 「うむ。やつらもここまでは来れまいて」
 「やつらって?」
 「組織のやつらじゃよ」
 「組織って?」
 突然光があふれ出し、セントリペーターはあッと小さく叫んで目をつぶった。そっと薄目を開けようとするが、目が暗闇に慣れてしまって光が痛い。
 「おじいさん、まぶしいよ」
 しかしもう人の気配はなく、遠くからざわざわとした街の喧騒が聞こえてきた。ようやくセントリペーターの目が開くと、そこは地下なんかではなく、市場だった。
 「ここはひょっとして、マルグッタ通りなのか?」
 セントリペーターは大またで歩いていく女の子に声をかけた。
 「すみません・・・パードン?ペルミッソ?」
 「そもさん?」
 「せっぱ?」
 「カルメンにすね毛は生えているか?」
 女の子はなぞの言葉を残して、去っていった。
 イタリアに来たのは初めてだった。国の外に出たことさえなかった。セントリペーターは、女の子がつぶやいた日本語にめまいを覚えた。湿気を帯びた市場の空気が首筋にまとわりつく。白いTシャツに白いエプロンをした小太りの男が肉屋の店先で何やらイタリア語で怒鳴っている。ここがローマなのは間違いない。さっきの少女はここに住んでいる日本人なのだろうか。もはや確認しようがなかった。少女は大またで立去り、青いワンピースの後姿しか見えなかった。黒い髪が肩の下まで伸びていた。
 「何をしておる。こっちじゃ」
 市場の入口の方でセントリペーターを呼ぶ声がした。洞窟の中で聞いた、あの声だった。逆光にシルエットが浮かんでいた。右腕に杖を持っている。濡れた通路を入口に向うにつれて、老人の姿が見えてきた。オールバックにした真っ白な髪が肩まで伸び、もみ上げからつながった白く豊かな顎ひげは胸に届いていた。麻袋のような服にはフードがついている。どこかの岬で両腕を天に向かってさしあげれば海が真っ二つに割れる、そんな威厳と風格が漂っていた。
 『ロード・オブ・ザ・リング』から抜け出てきたようなその老人は、目を細めて言った。
 「案内しよう」
 「案内?」
 セントリペーターは驚いて尋ねた。
 「僕がどこに行くか、知ってるの」
 「ほほう」
 老人は知恵者の笑みをたたえて答えた。
 「つまりお前は、自分の行き先がどこなのか、わかっていると言うのだな」
 「もちろんだよ。あ、お礼が遅くなったけど、さっきはありがとう。助けてくれて」
 「礼には及ばんよ」
 老人は相変わらずにこにこしている。
 「で、行き先はどこかな」
 「マルグッタ通り」
 「何番地かな」
 「それはこのメモに書いてあるんだ」
 セントリペーターはズボンのポケットをまさぐった。ない。シャツの胸ポケットにもメモはなかった。ヘリコプターに乗った時はちゃんとあったのだ。トミー・リー・ジョーンズ似のカウボーイに見せたのを覚えている。待てよ、とセントリペーターは思った。カウボーイに見せた後は?メモは返してもらったっけ?
 顔から血の気が引いていくのを感じた。あのまま墜落してしまったのだとしたら、とっくの昔に焼けてしまっているはずだ。セントリペーターは記憶の糸をたぐりよせた。メモを渡したとき、カウボーイが何か言ったはずだ。誰かのアパートがそこにあるのだと。
 「51番地じゃないかね」
 老人が胸元から紙を差し出して言った。
 「大事なものはちゃんとしまっておくものじゃ」
 「おじいさん、どこでそのメモを」
 「倒れていたお前の横に落ちていたのを拾っておいたのじゃ」
 「なくしちゃったと思ってたよ」
 「さあ、出発じゃ」
 「うん」
 「手ぶらでいいのかね」
 「え?」
 セントリペーターは驚かされっぱなしである。
 「何か買わなくていいのかと聞いておるのじゃ」
 「別に何も。あ、トマトとチーズだ」
 市場でトマトとチーズを買えと、カウボーイに言われたのをようやく思い出した。セントリペーターは、皮を剥かれたウサギやヤギが吊り下げられている肉屋を通り過ぎ、さまざまな種類のオリーブとズッキーニが山のように積まれた八百屋に向かった。でっぷりと太った八百屋のおかみさんに、唯一知っているイタリア語で話しかけた。
 「ソノ・ジャポネーゼ・ディ・トーキョー」
 「無理するでね。あんこう、過ぎだが?」
 「うわ」
 まさか日本語が通じるとは思わなかったセントリペーターはびっくりして飛び上がった。
 「お、おばさん、日本語わかるの」
 「おらナポリの生まれだ。こっちゃ来たのは十四の時だ」
 「おばさん、本当にイタリア人?」
 「んだ」
 「日本語はどこで習ったの?」
 「ボローニャ大学だ」
 大学を出て市場で野菜を売っているなんて、一体どういう身の上なんだろうと、セントリペーターは不思議に思ったが、もっと不思議なのは、おかみさんの日本語がどうみても津軽弁であることだった。
 「こさ来い」
 「え?」
 「こさ来い」
 「コサコイ?コサコイって、野菜ですか」
 「そげん、ぞうたんのごたることがあんもんね。こっち来い」
 「あ、こっちに来い、ね」
 おかみさんは店の中にセントリペーターを招き入れた。
 「ズッパ飲むが」
 「ズッパ?」
 セントリペーターは泣きたくなった。何を言っているのかさっぱりわからない。
 「ズッパ飲むがで。スープだ」
 「あ、はい。いただきます」
 「ぬれべ。ぬぐだめるが」
 「え?」
 「ぬぐだめるか。あっだめるか」
 「いえ、結構です」
 「あまらがすでねよ」
 「え?」
 「ぜんぶ飲めよ」
 「あ、はい」
 甘い香りのスープだった。八百屋が作るのに何でこんな甘い香りのスープなんだろう。懐かしいような、くすぐったいような、不思議な香りだ。飲む前にまず香りを楽しむ、ダージリンティーのようなスープだった。
 鼻から十分に息を吸って、セントリペーターが一口飲もうとしたそのとき、おじいさんの目がきらりと光った。
 「それを飲んではならん!」
 言うがはやいか、セントリペーターの手からスープ皿を叩き落とした。飛びのいたセントリペーターの足元に、スープがひっくり返った。と、スープは見る見る青く変色し、すぐに消えてなくなってしまった。
 「チッ」
 津軽弁のおかみさんは舌打ちし、着ている服をさっと剥いだ。すると下から黒ずくめの衣装の女が現れた。これがおかみさんの正体なのか?
 「じじい、よくぞ見破った。いいことを教えてやろう。チーズ屋はこの隣だ。」
 黒ずくめの女はうずくまるとそのまま小さくなり、トマトになってしまった。
 「危ないところじゃったな。さあ、いくとするか。」
 おじいさんはそのトマトを拾い上げるとそう言って、トマトをポケットに入れた。
 「危ないって・・・?」
 「始めからあの女はどうも怪しいと思っておった。」
 そりゃイタリアの市場で津軽弁を話してりゃ怪しいよ、とセントリペーターは思ったが黙っていた。
 「トマトは手に入ったが、さてあとはなんだったかの?」
 「えっと・・・チーズだ。」
 二人は隣の店をのぞいた。そこはどう見ても花屋だった。割れかけたバケツに色とりどりの花が無造作に突っ込んであった。しかし、トマトに変身した津軽弁のおばさんは、隣がチーズ屋だと言い残したではないか。
 「すみません・・・チーズが欲しいんですけど・・」
 「チーズぅ?」
 店の奥からけだるい声がした。そうだよな、花屋にチーズがあるわけないよな、と思いながらセントリペーターは赤くなった。
 しかし、出てきた人を見て今度は血の気が引いた。
 それはさっき、なぞの言葉を残して消えた女の子だった。
 『カルメンにすね毛は生えているか?』
 セントリペーターは心臓が高鳴るのをおさえて言った。
 「チーズを・・・チーズが欲しいんです。」
 「うちは花屋だがね」
 「でも、隣のおばさんが隣はチーズ屋だって・・・」
 「んなもんありゃせんて。おみゃーさんも見たら分かりそうなもんだが。花屋にチーズがあるわきゃにゃあわ。」
 「ブルーチーズはどうじゃね?」
 少女の名古屋弁に負けずにおじいさんが言った。
 「にゃあ、っていっとるがね。」
 「じゃあ、モッツァレラは?」
 すると突然、女の子は黙り込み、そして涙をぽろぽろ流し始めた。
 女の子に泣かれると男の子は弱い。昔から相場が決まっている。周りの店の人たちの視線を感じたセントリペーターは、しかたなく、女の子をなだめることにした。
 「どうしたの」
 声をかけたが、女の子の涙は止まらないばかりか、肩をひくひくさせて嗚咽をはじめた。セントリペーターは肩を抱こうと女の子に近寄った。足にぬるっとした感触がした途端、体が宙に浮き、世界が回転した。頭が割れるように痛い。目を開けると市場の天井の蛍光灯が見えた。背中がぐっしょり濡れている。水浸しの床に大の字になっているのがわかった。下から見上げた女の子の顔は真っ赤な液体でぐしょぐしょになっている。セントリペーターの手も真っ赤だった。転んだ拍子に手に持っていたトマトを女の子にぶつけてしまったらしい。靴底にチーズがべっとりついている。踏んづけたのだろう。
 がやがやと騒がしい。周りの店の人たちが集まっている。ばかでかい声でおばさんが何か叫んでいた。体を起こすと女の子は号泣している。セントリペーターは男と目があった。大男で、肉包丁を握っている。その目がみるみるうちに怒りの色を帯びてきた。何か喚きちらしているが、何を言っているのかイタリア語なので皆目見当がつかない。なんでこんな時に限ってイタリア語なんだ。津軽弁はどうした。名古屋弁はどうした。
 殺られる。このままでは殺られる。
 セントリペーターが殺気を感じたとほぼ同時に、肉包丁が顔の前にふりかかってきた。セントリペーターはかろうじて身をかわし、出口に向かって駆け出した。市場の人たちが猛スピードで追いかけてくる。悲鳴。怒声。
 通りに出た途端、人にぶつかり、相手が舖道に倒れた。すいませんと言ってちらりと相手を見ると、ウエディングドレスを着た若い女で、女はセントリペーターの顔を見るや、あっと声を上げ、突き倒されたことも忘れたのか、かたわらのブーケを手にとってセントリペーターに向かってにっこり微笑んだ。セントリペーターは無視してスペイン広場の方角に走った。交差点のあちこちにウエディングドレス姿の女がいる。セントリペーターが走るにつれ、花嫁たちが駆け出す。一目散に走りながらセントリペーターが後ろを振り返ると、数十人の花嫁がドレスを翻しながら猛烈な勢いでセントリペーターの後を追っている。その数は交差点を通るたびに増していった。
 最後の交差点を曲がるとき、セントリペーターの後ろを追いかける花嫁の数は百人近くになっていた。セントリペーターが振り向くと、その群衆はまるでハツカネズミの大群のようだった。しかしすごい数だ。何故だか文金島田の人やゼッケンをつけたランニングシャツの人もいたような気がしたが、セントリペーターは見なかったことにした。
 最後の交差点を曲がったら、そこは行き止まりだった。
 なんてこった。
 このまま走るのをやめたら、彼女たちに押しつぶされてしまうのではないか?
 しかし、行き止まりのレンガ塀は迫ってくる。百人の花嫁たちは歓声をあげながらセントリペーターの真後ろまで追いついてきていた。
 レンガ塀にしなだれかかり、ゼイゼイあえぎながらセントリペーターは目を閉じた。一体どういうことなんだ?
 すると、上のほうから声がした。
 「気付きつつあるようだな。助かりたければ、改名することだ。」
 その声は・・・・!
 セントリペーターは天を仰いで叫んだ。
 「ハリー・ヨンジュ!どこにいるんだ!助けてくれ!」
 「助かりたければ改名することだ。セント・ペヨルグと。」
 「い・・・いやだ!」
 「ならば、ウエディングドレスに埋もれて死ぬがいい」
 百人の花嫁たちはスピードを緩めることなく、セントリペーターにむかって突進し、次から次へと折り重なっていった。
 息ができない。鼻水が出てきた。だんだん頭がぼんやりとしてくる。それから目の前がサングラスでもかけたように暗くなってきた。それは割合短い時間のうちに次々にやってきた。
 ひょっとしてクモ膜下出血か脳出血じゃないかとセントリペーターは思った。それまで経験したことがなかったから、なにか大変な事態が持ち上がっているのではないかと考えたのだった。花嫁たちの重みに絶えかね、そのまま死んでしまうのではないかと思った。意識が遠のき、まわりは真っ暗だった。
 「ルーク」
 深いエコーがかかった男の声がした。
 「ルーク。フォースを使え」
 「ベン!」
 セントリペーターは、遠のく意識の尻尾をつかんで、かろうじて応えた。
 「ベン!助けて」
 「フォースを使うのだ」
 「苦しいよ、ベン!」
 「改名しないからだ」
 「改名するよ。セント・ペヤングに改名するよ。だから助けて」
 「ペヤングって焼きそばじゃあるまいし・・・」
 男の声が遠のく。
 「ベン!待って!行かないで!」
 声は聞こえなくなった。フォースか。ルーク・スカイウォーカーは目を閉じて何か念じていたっけ。ベンもヨーダも。セントリペーターは見よう見まねで目を閉じ、花嫁よ消えよと心に念じた。
 突然体が軽くなった。身を起こして恐る恐る周りを見ると、白い布と赤い液体が辺りに飛び散っていた。百人の花嫁の残骸だった。足ががくがくと震えた。「テロリストだ」という叫び声があちこちでする。サイレンの音が街にこだまする。
 頭上に眩しく輝く光の球体が現れた。球体はゆっくりとセントリペーターの前に降りてきて、光が消えると美しい女が姿を見せた。
 「わたしはグリンダ。北の魔女よ」
 「魔女?」
 「ええそうよ。さあ、その靴をお履きなさい」
 「魔女にしては美しいですね」
 「わたしは良い魔女なの。悪い魔女は東の魔女。此の世のものとも思えない醜い姿をしているわ」
 「そうなんですか」
 セントリペーターが足もとを見ると、赤くきらきら輝くミュールが一足あった。
 「女物ですけど」
 「つべこべ言わずにお履きなさい」
 セントリペーターが履くと靴は足にぴったりのサイズだった。
 「では目を閉じて。願い事をして、かかとを三回打ち合わせなさい。そうすれば願い事が叶うでしょう」
 まるでオズの魔法使いみたいだとセントリペーターは思ったが、花嫁の死骸が転がっているこの場から逃れられるなら魂を悪魔に売ったってかまわないというつもりで目を閉じ、かかとを三度打ち合わせた。
 目を開けた。古びたアパートの前に立っていた。ドアの上の採光窓に数字の51のプレートがあった。マルグッタ通り51番地だと直感したセントリペーターは、ズボンのポケットからメモを取り出し、あらためて目を通した。「世界の中心。ローマ・マルグッタ通り51番地。ヘルプ・ミー」。
 「ここだ」
 セントリペーターはドアノブを握って押した。ドアには鍵がかかっていなかった。セントリペーターはアパートの中に入った。
中にどうやら誰かいるようだ。
「ズルズル、ズルズルズルズズー。」
小池さんがラーメンをすすっていた。
「おい、こんなところで食ってたら、かぜひくぞ」
 小池さんはぎょっとして振り向いた。
 さあ、いまだ!
 「小池さん、ですよね・・・」
 「ズルズル」
 「アフロヘアにメガネ。そしてラーメン。あなたは天才バカボンの・・・」
 「ズル」
 「あの、小池さん。ちょっと伺いたいんですが」
 「・・・ズルズル?」
 「ここはマルグッタ通り51番地ですか?」
 「・・・ズル、ズルズル」
 「すみませんが」
 「ズル?」
 「ラーメン食べながら返事するの、やめてくれませんか」
 「ズルズルズル!」
 「あ、ごめんなさい」
 「ズルズル!ズルズルズル!」
 「ちょっとのあいだでいいんです」
 「ズルズルズルズル!」
 「じゃあ、食べながらでいいですから。マルグッタ通り51番地はここでしょうか」
 「ズル」
 「それはイエス?それともノー?」
 「ズル!」
 「世界の中心を探しているんです。世界の中心でぼくに助けを求めている人がいるんです」
 脇目もふらずラーメンを食べていた小池さんの箸がぴたりと止まり、何かをつまみあげた。ナルトだった。
 「ナルトなんかどうでもいいんです。ぼくは世界の中心を探しに・・・あっ」
 セントリペーターは慄然とした。小池さんがつまみあげたナルトには渦巻きがあった。渦巻きには中心があった。
 ナルトの渦を見たセントリペーターは、電撃を受けたように、あっと叫んで飛び上がった。ある重大な事実に思い当たり、顔は青ざめた。
 「この小説、ちっとも進んでいない…」
 セントリペーターは自分が主人公であるにも関わらず話が一向に展開されていないことに気づいた。
 「ぼくの記憶違いでなければ、ぼくは『ハリー・ポッターと冬の中心でソナタを叫ぶ』の主人公なのだ。世界の中心に向かう旅の途上にあるのだ。それなのに、それなのに…」
 進みたい。一歩でも前に進みたい。だが進むべき道を作者は与えてくれない。
 「もうおしまいなのだろうか。望みはないのだろうか。たこ焼き村さんがひょっこり顔を出してこの続きを書いてくれる、そんな奇跡を期待してはいけないだろうか」
 セントリペーターは夜空を見つめた。
 「たこ焼き村さんじゃなくても構わない。でんでんさんが、忙しい仕事の合間にちょっとした息抜きを兼ねて二、三行書く、そんなことがないと、誰に断言できよう。ラッサナ・ラマヤさんとS先生の奥さまがスペイン語で続きを書いてくれたっていいんだ。もしかしたら mori_suguru さん改め住みよいか住みにくいかさんが偶然ここを読んでくれるかも知れないじゃないか」。
 月明かりがセントリペーターの顔を青白く照らす。
 「悪魔ホルヘさんならエッチな話を書いてくれるはずだ。ともこさんがお昼休みに来てくれるかも知れない。あるいは飯加減守さんが、もずくさんが、ノイバラさんが…」
 だが、セントリペーターは一番肝心なことに気付いていない。いや、気付かないふりをしているのか、または認めたくないのか。だがそれはいまや誰もが認めている事実であった。
 「この物語をどこで終わらせるのか・・・それを決めるのは僕自身なのだ」
 今までも何度も世界の中心を掠め、エンディングかと思いきやだらだらと続いてしまう、その繰り返しだったのだ。
 「作者たちが飽きたのか・・・」
 紛れもない事実であった。作者であり読者である我々はもうエンディングを待っているのだ。これ以上ない、切れのあるエンディングを。
 「おまえ自身の手でこの物語を終わらせるのだ、セントリペーター。」
 どこからともなく聞こえるその声は、たこ焼き村さんの歌うような美しい声のようでもあり、でんでんさんの溜息交じりの声のようでもあった。
 「でも・・・僕いま不調なんだ。」
 セントリペーターはつぶやいた。気が付くと雪が積もりかけていた。
 「僕・・・期待されるといい成績を残せないんだ。そんな、世界をあっといわせるエンディングなんて、とうてい僕には作れやしないよ。」
 みるみる積もる雪に、雪かきしなきゃな、とぼんやり考えた。
 「ターコさんの眞鍋かをりチックな文体も、はりねずみさんのブラックなお話も、何もかもお前が終わらせなければならない。さあ、勇気を持って前へ進むのだ。マルかバツか?」
 「・・・、わかったよ。」
 姿なき声にボソッと返事をすると、セントリペーターはちらりと足元の雪を見て立ち上がった。雪は止みかけていた。
 「行くよ、ルドルフ」