4月5日~77年3月26日。土曜午後8時~9時。出演はコント54号(萩本欽一・前川清)、内山田洋とクールファイブなど。作者はパジャマ党。演出は竹島。プロデューサーは常田久仁子。
芸能史に残るタレントだったコント55号から独り歩きをした萩本欽一はこの番組を足がかりにスタートした〈欽ちゃんシリーズ〉がことごとく大ヒット、一時は高視聴率が確実に稼げるタレントとしてテレビ各局から引っ張りだこ。神様、仏様、萩本様と讃えられたものでした。
この番組、実はもともとラジオ番組でした。ニッポン放送でやっていた「ドンとやってみよう!」を元にテレビ版を作ったら面白いんじゃないか、と欽ちゃんが常田久仁子プロデューサー(フジテレビから千代田企画に移籍)に持ちかけ、フジテレビのスペシャル番組枠で放送されました。しかし肝腎の視聴率は3.9%と惨憺たる結果。テレビ版は失敗かと思われましたが、視聴率の低さに較べて内外での反響が大きく、日本テレビでのレギュラー化の動きに刺激される形で、フジテレビが強引に放送を開始したのでした。
裏番組はあの「8時だヨ!全員集合」。当時はお化け番組として土曜夜8時台に君臨していた「全員集合」だけに、負けてもともとと再出発したところ、初回の視聴率が17.8%。あれよあれよという間に「全員集合」を追い越し、一年後には31.1%の最高視聴率(76年2月1日)を記録、その後の〈欽ちゃんシリーズ〉の土台ができました。
内容は、視聴者から送られてくるコントを欽ちゃんが読むという単純なもので、「母と子の会話」「夫婦の会話」「ああ勘違い」の三種類で構成されていました。たとえば、
子「ママ、パパがトイレに入ったきり出てこないよ」
母「バカだね、あれはパパの部屋なんだよ」
子「母ちゃん、お風呂でスルメが泳いでいるよ」
母「バカだねぇー、おばあちゃんに早く出るように言いなさい」
といった二行コントが毎週5~6万通送られてきました。それをスタジオに来ている観客の反応によって、「バカうけ」「ややうけ」「どっちらけ」に分類。〈ばかうけ〉という言葉は流行語になり、作品集をまとめた本もベストセラーになりました。
しかし視聴者に頼りきりの主体性のなさが足を引っ張ったのか、息切れが見え、やがてドリフには適わず、77年3月26日を最後に欽ちゃんは最初の急用宣言を出します。
4月5日~1981年3月28日。土曜午後12時30分~1時30分(1975年4月5日~76年3月)、土曜午後1時~2時(76年4月~81年3月)。作者は佐々木守と田村隆。演出は真船禎。プロデューサーは境和夫。
2001年現在、テレビ番組はジャニーズ事務所と吉本興業がいないと成り立たないほどですが、当時テレビ界に君臨していたのは〈ナベプロ王国〉こと渡辺プロダクションでした。抱えていたタレントはザ・ピーナッツにクレージーキャッツ、ドリフターズ、沢田研二、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズなど。最盛期には所属タレント300人、従業員数650人を誇りました。そんなナベプロのタレントが大活躍したのがこの番組です。
レギュラー出演者はずうとるび、ジェリー藤尾一家、ゴールデンハーフを解散しソロで活動していたエバ、そして伊東四朗と小松政夫の名コンビ、さらにキャンデーズ。ランドセル姿の伊東と父親の小松による「親子コント」で二人は絶妙のコンビネーション見せました。
当初は、「みかん色の恋」がヒットして人気があったずうとるびがメインキャストで、伊東と小松は最初の2回だけのゲスト出演の予定でした。二人はプロデューサーに「ずうとるびのバラエティー・デビュー番組ですから、二人で盛り立ててやって下さい」と言い含められていました。ところが初回の二人のコントがあまりにも面白くて、結局レギュラーになり、いつしか二人がメインになっていったのでした。
ショートコントの代表作は「小松の親分さん」。子分の伊東が、落ち込んだ親分の小松を慰めようと、「ズンズンズンズン3、4、小松の親分さん」という掛け声でノセます。小松は急にテンションが上がり、「ニンドスハッカッカ、ヒジリキホッキョッキョ!ガーッチャマンに負けるな、負けるなガーッチャマン!」と高らかに叫ぶ。この強引さが魅力でした。
教室コントでは伊東がファシスト的な教師をクールに、そして殺気を帯びて演じました。