この年フジテレビが開局。それと同時にスタートしたのがクレージーキャッツのこの番組です。3月2日~1964年12月31日。毎週月曜から土曜の午後12時50分~55分。
演出を担当したのは現在は作曲家のすぎやまこういち。彼は、テレビ番組の基本はニュースと考え、その日の新聞に載ったニュースを題材に〈一筆書きの風刺コント〉を企画しました。当時開局準備のために出向していた日本テレビのスタジオで彼はクレージーキャッツと出会い、起用を決めます。作家として加わったのはキノトール、青島幸男、永六輔など錚々たるメンバーで、この作家陣が、たった五分間の番組とはいえ、月曜から土曜までその日の朝刊に載った記事を選び、昼の本番までに台本にするのです。台本が完成するのは本番の二時間前。当然、台本を印刷する暇はなく、クレージーキャッツはそれぞれ自分の台詞の部分を切り取って暗記します。ディレクターも、台本が切り刻まれてしまうため、すべて暗記してしまわないと演出ができないというありさまでした。
こうなるとハプニング続出は目に見えています。番組がスタートする前の試験放送で、岩戸景気をテーマに〈岩戸ロマンス〉というコントをやることになり、ハナ肇がスサノオノミコト役を演じます。ところがカメラを前にしてハナ肇がアガッてしまい、台詞を忘れてしまいます。そこで植木等が画面に入らないようにハナ肇の足許で台本を読み上げます。が、マイクに植木等の声まで入ってしまいスタジオ中が大爆笑。
本放送が始まってからもハプニングは続きます。1960年5月、安保騒動のさなか、全学連のデモ隊と警察がやり合うコントをやったときのこと。台本では、学生デモ隊の弟が、警察官の兄と、デモの最中にばったり出くわし、兄が弟に「お前の言うことも分かる。とにかく体に気をつけてガンバレ」というものでした。ところがなぜか時間が余ってしまい、そこで、時間を稼ぐために、警察官の兄が制服を脱いでデモ隊に参加し、おまけにその制服を踏んづけてしまいました。これがが物議をかもし、局に抗議の電話が鳴り続け、右翼が乗り込むという騒ぎに発展。
嘘のプレゼント告知に電話が殺到したり、政治家から圧力を受けたりしながらも、番組は約1,800回も続きました。フジテレビの昼の12時台はこの後も「お昼のゴールデンショー」から「笑ってる場合ですよ!」「笑っていいとも」へと、バラエティの王道を走り続けます。
船場の薬問屋を舞台に、三人の丁稚が繰り広げる、公開生放送の涙と笑いの関西喜劇。三人の丁稚(大村昆、茶川一郎、芦屋小雁)が、番頭(芦屋雁之助)にいびられながらも、それをギャグで笑い飛ばす。そのドタバタと、大阪らしい反骨精神が共感を呼んで、同じ時間帯のNHKの人気番組「私の秘密」を凌駕するヒット番組になりました。大村昆はこの番組で人気爆発。59年9月に読売テレビ・日本テレビ系列で始まった鞍馬天狗のパロディー番組「とんま天狗」で主役の座をつかみます。作・演出は花登筐。出演は他に島靖彦、由美あずさ。3月8日~60年4月17日。同月24日から「新・番頭はんと丁稚どん」がスタート(12月25日終了)。
3月1日、毎日放送がテレビ本放送を開始します。その一週間後にこの番組がスタート。毎週月曜日の午後7時30分から8時まででしたが、裏番組はNHKの「私の秘密」という人気番組で、放送開始まではさほど期待されていませんでした。ところが蓋を開けてみると、視聴率は予想外に伸び、12月には63.3%を記録。「私の秘密」を抜き、大ヒット番組になります。
作者の花登筐がプロデューサーに番頭と丁稚のコントを見せたところ即決。たった一時間で企画が決まりました。当時の毎日放送はスタジオが手一杯だったため、公開放送で行うこともその場で決定されました。しかもそれは放送開始二週間前だったのです。
会場は、予算が少ないため、当時花登筐が所属していた東宝芸能のコネで東宝直営の南街会館という映画館になりました。そのため公開放送は映画の上映時間の合間を利用して行われました。しかし放送開始当初は「映画を見にきたのにどうしてこんなものを見せられなきゃならないんだ」と不評だったそうです。でも放送が始まると人気は即座に高まり、番組目当ての客が映画館につめかけて、入りきれないほどでした。
人気の的はなんと言っても大村崑。彼が演じる丁稚の崑松が番頭にいびられるたびに、「崑松がかわいそう」という同情の声が上がり人気もそれとともに上がっていきました。この番組は喜劇ですが、「てなもんや三度笠」などのスラップスティック喜劇とは異なり、人情喜劇でした。つまり、たとえば、いじめられた崑松が故郷の母を想ってひとり涙するというような、泣かせる場面が必ずあったのです。笑いの部分も、乾いたナンセンスなギャグではなく、丁稚という存在の哀愁を帯びたものでした。それが花登筐の世界だったのです。
ところが大村崑の人気独走が思わぬ波紋を呼びます。同じく丁稚役の茶川一郎が番組を降りるというのです。毎日放送とスポンサーは、新聞広告で、茶川一郎不出演のお詫びを述べるという前代未聞の事件になりました。番組の人気推して知るべしです。
しかしその人気も長続きせず、60年4月を境にして徐々に下り坂になり、翌年の4月25日からは「新番頭はんと丁稚どん」とタイトルと内容を一新して再スタート。前作の舞台は大阪の船場の薬屋でしたが、今度はレストランという現代的なシチュエーション。また新たにトニー谷がレギュラーとして加わりました。内容は前作と大差ないものでした。
この当時花登筐は関西の笑いの世界を席巻したと言っていいほどの活躍ぶりで、この他にも「やりくりアパート」「三等兵物語」「お笑い110番」「らーめん親子」「私売ります」など、手がけた番組は数知れず。それまで演芸界の芸人が主流だったバラエティーに軽演劇のコメディアンを抜擢した功績は大きいのです。
7月16日~61年6月27日。木曜午後10時45分~11時。
「おとなの漫画」の夜版。時事ネタコントをやりました。
9月5日~60年12月24日。土曜午後1時15分~45分。60年10月3日から午後7時~7時30分。昭和30年代に〈崑ちゃん〉として一世を風靡した大村崑の「番頭はんと丁稚どん」と並ぶ人気番組。脚本も同じく花登筐。
内容は「鞍馬天狗」のパロディーで、大村崑扮する〈とんま天狗〉が新撰組の〈近藤勇造〉や〈土方大三〉らと対決するというもの。毎回、とんま天狗の行く先々で、近藤や土方が現れ、そのたびに近藤は斬られてしまう。ところが何度斬られても次回は元気に(!)登場するというのがミソ。近藤を演じたのは芦屋小雁、土方は芦屋雁之助で、毎回斬られる芦屋小雁の「斬られたよ~!」という言葉は流行りました。また番組中で、大村崑が生コマーシャルを担当し、大塚製薬のオロナイン軟膏を「姓はオロナイン、名は軟膏」とやったのがウケて、流行語になりました。
もちろんこの番組も生放送で、台本が仕上がるのは三日前、放送日の朝までリハーサルをし、直後に本番を迎えたそうです。
ちなみに、時代劇であるこの番組でも大村崑はトレードマークの眼鏡をかけていました。
10月9日~61年1月8日。金曜午後7時30分~8時。出演はスリーポケッツほか。
売り出し中のコメディアン、スリーポケッツの谷幹一、関敬六、海野かつをの三人を巡査に見立てたコメディー。厳密な意味でコント番組だったかどうかは不明。
12月8日~60年4月26日。火曜午後8時30分~9時。出演は藤山寛美、渋谷天外、曾我廼家明蝶ほか。作者は館直志(渋谷天外)。演出は香坂信之。
読売テレビは開局の翌年(1959年)から、それまでの東京中心の番組編成から大阪物に比重を置くようになりました。その代表が、9月にスタートした「とんま天狗」と、12月スタートの「天外の親バカ子バカ」です。どちらもスタジオ・コメディーで、その成功以来、読売テレビは次々とスタジオ・コメディーを制作します。昭和34年から36年までの三年間で読売テレビが制作したスタジオ・コメディーは17本。大村崑主演物は4本、藤山寛美主演物は6本。当時の二人の人気の高さが窺えます。なかでも人気が高かったのが「とんま天狗」とこの番組でした。昭和35年1月26日、「天外の親バカ子バカ」は「とんま天狗」の視聴率を抜き、49.4%に達します。
内容は、松竹新喜劇をテレビドラマ化したもので、出演者も新喜劇の舞台公演をしているメンバーでした。松竹新喜劇といえば、昼夜休まず公演をしている劇団。その公演の合間を縫って収録が行われました。渋谷天外と藤山寛美が親子役を務める、二人を中心とした人情喜劇でした。人気を集めたのは〈アホ〉の藤山寛美。アホであるがゆえに純真な心を持ち、登場人物のなかでもっとも〈正論〉を吐く、そんな人情味溢れる藤山寛美の演技が共感を呼びました。この番組で藤山寛美=アホというイメージが定着し、テレビでの出世作ということになります。