TVコント大全

1958(昭和33)年

やりくりアパート
朝日放送

「番頭はんと丁稚どん」の前身と言える番組で、作家の花登筐を始め、出演者の大村昆や茶川一郎、芦屋雁之助など、ほぼ同じ顔ぶれが揃っていました。花登筐や大村昆の名前が知られるようになったのはこの番組です。出演は他に芦屋小雁、横山エンタツ、中山千夏、初音礼子、佐々十郎など。4月6日から60年2月28日。毎週日曜午後6時30分~7時。演出は花登筐。

内容は、なにわ荘というアパートの住人を描いた人情喜劇で、アパートの管理人が横山エンタツと初音礼子の夫婦役、アパートに住むぐうたら学生が佐々十郎と大村昆、女形が茶川一郎、子役が中山千夏。主役は横山エンタツと初音礼子でしたが、一番の人気者になったのはまだ無名だった大村昆でした。当時人気があった三木のり平を真似て、黒縁の眼鏡を鼻にかけて登場し、主役の二人を食うようになりました。

これには裏話があります。スポンサーにダイハツ株式会社が決まったまでは良かったのですが、次に局側からクレームがつきます。キャスティングに問題があるというのです。北野劇場のトップ・コメディアンの佐々十郎、南街ミュージックホールの茶川一郎がいたというものの、まだ知名度は低く、大村昆と芦屋雁之助にいたってはまったく無名でした。そんなコメディアンたちしか出ない番組をゴールデンタイムに放送するというのですから、クレームが出るのも当然です。そこで急遽、横山エンタツと初音礼子が主役に抜擢されました。こうしてようやく番組がスタートします。ところが脚本の段階で話の中心人物を大村昆、佐々十郎、茶川一郎にしてしまったのです。花登筐は局側のクレームを無視した格好になり、「これなら誰が主役かわからへん」と初音礼子が抗議したそうです。

当時の他の番組同様、この番組も生放送だったので、ハプニングはつきものでした。ある日、生コマーシャルの時、アナウンサーが「ダイハツ提供…」と言うべきところを間違ってライバル会社である「マツダ提供…」と言ってしまいました。そこで花登筐はスポンサーの怒りを鎮めようとして咄嗟に佐々十郎と大村昆を呼び、「番組の終わりのコマーシャルを君たちがやれ!」と命じます。仕方なく二人は「ミゼット!」だけを連呼し、最後に佐々十郎が「言うたった」とオチをつけました。この苦肉の策がなぜかウケて、その後、この番組の売り物になりました。

こうして視聴率も上がり、はじめは三木のり平の物真似と言われていた大村昆が、逆に三木のり平に真似されているとまで言われるようになったほどです。三木のり平は仕方なく眼鏡をかけるのをやめてしまいました。

光子の窓
NHK

歌あり踊りあり笑いあり。こういう構成のショー番組はこれが初めてです。企画したのは日本テレビの井原高忠。当時「ニッケ・ジャズ・パレード」という音楽番組を担当しており、ジャズファンしか見てくれないことを恐れた井原は、当時の人気モデルだったヘレン・ヒギンズを網タイツ姿で登場させ、これはかなり反響を呼びました。放送される時間になると男性がみんな家に帰ってしまうので飲み屋が空いてしまうという神話が生まれたほどです。

こういうアイデアを取り入れて井原は「光子の窓」をバラエティーの名にふさわしいものにしました。レギュラー出演陣の他に毎回ゲストとしてタレントや俳優、スポーツ選手を登場させ、第一回目のゲストは巨人の長嶋選手でした。笑いのゲストも多様で、脱線トリオ(三人ではなく一人ずつの出演)や益田喜頓、坊屋三郎、古今亭志ん生、クレージーキャッツなど。志ん生はソ連のフルシチョフ首相そっくりに扮して話題を呼んだと言います。

話題を集めたと言えば、なんといってもオープニングでしょう。草笛光子がセットの家の窓を開けて歌うのですが、最初は窓だけでなく、奥の部屋までセットが組んでありました。その後、セットが改良され、窓だけのものになり、しかもそれが真ん中から割れ、カメラが次第に寄っていき、顔のアップになり、カメラが引くと、広い何もないスタジオに草笛光子がひとり立っているシーンになりました。当時は生放送だったので、どういう仕掛けなのか不思議がられたそうです。

この番組は多くの才能を生みました。アシスタント・ディレクターの横田岳夫は「11PM」金曜日のプロデューサー、秋元近史は「シャボン玉ホリデー」のプロデューサー、フロア・アシスタントの白井荘也は「カックラキン大放送!!」のプロデューサーになります。フロア・マネージャーの斎藤太朗は「シャボン玉ホリデー」「カリキュラマシーン」「日本仮装大賞」のプロデューサーになり、今は「思いッきりテレビ」のディレクターを務めています。